哲学
「いき」とは何か? 哲学者・九鬼周造の"美意識"に迫る
あまりに明徹な知性の持ち主
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文/藤田正勝(哲学者)

抽象から現実へ

このたび『九鬼周造―理知と情熱のはざまに立つ〈ことば〉の哲学』を講談社選書メチエの一冊として上梓した。「理知と情熱のはざま」と表現したのは、彼のなかに知の側面と情の側面、この二つの面が存在し、それが彼の学問的な営みを支えていたと考えたからである。

『「いき」の構造』や『偶然性の問題』などの代表的な著作が示すように、九鬼のなかには、他の同時代の多くの哲学者とは異なり、生きた現実への、そしてその豊かな内実への強い関心があった。もちろん、九鬼はその現実を厳密に分析し、明晰な論理の言葉で表現しようとした。

古代ギリシャから現代に至るまでの西洋哲学の展開についての確かな知識をもち、厳密な、そして抽象度の高い思弁的な思索を行う人であった。

しかし同時に、抽象の世界に閉じこもるのではなく、現実そのものに迫ろうとする意志と、それに対する鋭敏な感覚とをもっていた。その背後には、内面のあふれでる情熱と豊かな詩的センスとがあった。

『「いき」の構造』や『偶然性の問題』における概念の緻密で論理的な分析は前者を代表するものだろうし、詩集『巴里心景』や晩年にその刊行に心血を注いだ『文芸論』などは後者を代表するものであろう。

九鬼の教えをもっともよく受け継いだ弟子の一人である澤瀉久敬は、「九鬼先生を偲んで」と題した文章のなかで九鬼の人となりについて次のように記している。

「単に冷たい灰色の知性人であるよりも、華かに燃え、喜び、悲しみ、且つ悩む情の人であろうとされたのです。そこに詩人九鬼周造があります。が、それでいて、先生はただ情の海に溺れるにはあまりに明徹な知性の人でした」。

実際、九鬼は明徹な知の人であると同時に、喜びや懊悩を内に秘めた情の人であった。

その「情」のなかにも二つの面がある。たとえば九鬼は、一方で、片足に障碍を負わされながら、それは「脚の障碍であつて、意志の障碍ではない」と語ったエピクテトスの生き方に強く動かされた人であった。