梅雨になると、「竹」が気にかかる~祖母・幸田文をめぐる2つの思い出
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四季を彩る折々のたのしみ、日々の生活を豊かにする智恵。日本人が大切に守ってきた生き方がここにある。曾祖父・幸田露伴、祖母・幸田文、母・青木玉、そして筆者へと、幸田家4代にわたって脈々と受け継がれてきた幸田家のくらしへの向き合い方とこだわり。 

竹に思う


文/青木奈緒(作家)

ほかの樹木にない竹の生命力

梅雨のころになると、実家の庭が気にかかる。

門扉を入ったところから玄関まで、歩数にしてほんの五、六歩のせまい場所なのだが、踏み石の両脇に大名竹が植えてあって、この時季、筍が出て若竹へと生長する。雨後の筍というくらい、あっちからもこっちからも。

そのまま放っておくと、ひと雨、ふた雨降るうちに、若竹は電線に届くまでに生長する。新たに一本増えても構わないところなら、高さをそろえて適当な節でとめてやればいいのだが、竹は人の思惑など頓着せず、地下で根をはってコンクリートの基礎を越え、家の内側にある庭にも侵入する。あるときは玄関のたたきと沓脱石(くつぬぎいし)のすき間からも筍が顔をのぞかせたことがあった。

手前の忙しさに手入れを怠り、今日は雨だからとか、陽ざしがあまりにきついからと空を見あげて日和見していると、ぐんぐんと竹の勢いに押される。切りどきを逸すれば根元が硬くなり、鋏の歯はがっちりくいこんでにっちもさっちも動きがつかない。軒下にはえたものは先端が軒にぶつかり、窮屈におじぎしながら、それでも生長しつづけようとする。生長期の竹は、ほかの樹木にない生命力を発揮する。

不用意に何の支度もせずに竹を切りにかかれば、手の甲や腕が葉にふれて、細かな棘がささったようにちくちく痛む。蚊の猛攻からも身をまもらなければならない。全身をおおって、ゴム手袋に鋏を持って、切った竹をさらに短く裁断して、捨てるための袋も用意してとりかかる。汗だくの作業である。

そうは言っても、小一時間もあればすむこと。それを荷厄介にする自分自身がいやなのだと、あるとき知りあいに愚痴をこぼしたことがある。すると、その人は「今ごろ、筍が出るの?」と、不思議そうな顔をした。言われてみれば、食用の太い筍の出盛りは四月から五月にかけてだろうか。