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「犬は嘘をつかない」は本当か? "ひらめき"を引き寄せる方法
ウィトゲンシュタインの言葉に学ぶ
〔photo〕iStock

文/古田徹也(新潟大学准教授)

「当たり前」をゆさぶる

ありふれた風景が一変するときがある。よく見知っているはずのものに対して、これまでとは別の見方ができることに、ふと気づくときがある。

新鮮な驚きを含んだその体験を、私たちは「ひらめき」と呼ぶ。それは、硬直したものの見方を解きほぐし、新しいアイディアや方向性を見出すための糸口がひらける瞬間でもある。

現代を代表する哲学者の一人ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)が遺した数々の文章は、そうした「ひらめき」を読む者に起こさせる仕掛けに満ちている。

20世紀最大の哲学者の一人ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン

このほどはじめて訳出した『ラスト・ライティングス』(講談社)は、彼の思考が熟成を極めた晩期の著作であるが、そこでは主に人の心をめぐる事柄に関して、当たり前と私たちが見なしている見方に揺さぶりをかける様々な議論が展開されている。

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たとえば、私たちはしばしば、人の胸の内を知っているのはその当人だけだ、と考える。自分が痛みを感じているかどうか、怒りを感じているかどうか、それを知っているのは自分だけだ、という風に。

しかし、ウィトゲンシュタインは、自分が何の体験をしているかを知っていると言うのは間違っている(『ラスト・ライティングス』405頁)と言う。なぜなら、知っているというのは本来、知らない可能性がある場合にのみ言われることだからだ。

たとえば、「自分が何グラムで生まれたかを自分は知っている」という発言が意味のある言葉として皆に受け入れられるのは、そのことを知らないケース(忘れてしまった、教えてもらったことがない、等々)が考えられるからである。

これに対して、自分が痛みを感じているのにそのことを自分が知らない、というケースは、少なくとも日常の生活の脈絡においてはほぼ考えられない。そのため、「自分が痛みを感じていることを自分は知っている」と誰かが言ったとしても、聞いた方はどう返してよいか分からないだろう。つまり、なぜ相手がそんなことを言うのか見当もつかないだろう。

その意味で、自分が痛みを感じていることを自分が「知っている」と言うことは、たいていのケースでは意味をなさない。

かといって、「知らない」と言うのも、前述のとおり奇妙極まりない。言い換えれば、自己の痛みとは基本的に、「知っている」とか「知らない」という概念の範疇に当てはまる事柄ではない、ということである。