AI
AIが囲碁や将棋でひとを打ち負かす時代が到来しても、コンピュータが「生身の人間」に敵わないワケ 

文/諏訪正樹(慶應義塾大学教授)

「知」は生活の至る所にちりばめられている

僕は知の研究に携わっている。お気に入りのカフェをみつけたり、小説の裏に潜む著者の思想に思いを馳せたり、日本酒を嗜みながらどんな料理に合うかなと想像してみたり、野球の試合で惨めな凡退を喫し打撃のスキルを磨かんと試行錯誤をしたり。これ全て、知の為せる業なのだ。

そう、たとえ平凡な日常生活であったとしても、ひとが「生きる」上で必要な知は計り知れない。「わたしの生活には、ちょっと、平凡じゃない、自分らしいひとときがあるのよ」。そう自負するひとには、自分らしさを開拓し、それをしかと認識し、そのひとときを成立せしめる何か特別の知があるに違いない。

それが僕の研究思想である。知は生活の至る所にちりばめられている。産業界に役立つとか、学校教育に資するとか、社会に貢献できるような近未来の目的を明示して……などという打算、もとい、社会的使命はひとまず横に置いて、生活をみつめてきた。

ひとの普通の生活に成立する知を見出し、それが様々な知と協同しながら「自分らしいひととき」を成立させている奇跡に打ち震え、その深遠さにおののき、それでも、そうした知の謎に分け入ってきたのだ。