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舛添氏「最後の登庁」に報道陣150人は必要か? 日本のメディアの哀しき時代錯誤
「コモディティニュース」に価値はない
〔photo〕iStock

マスコミ業界の時代錯誤

政治資金問題で批判を浴びて東京都知事を辞任した舛添要一氏。最後の登庁となった20日に残務処理を終えて都庁から出てくると、正面玄関で大量のカメラフラッシュを浴びた。何しろ、そこに各社から総勢150人もの報道陣が集結していたのだ。

舛添氏の辞任は大ニュースだが、「最後の登庁」に業界全体で150人もの記者やカメラマンを投じる意味はあるのか。10人でも十分だったのではないか。

「最後の登庁」はどのメディアでも同じように取り上げられたニュースだ。ありふれていてコモディティ化しているから「コモディティニュース」といえる。

当日のテレビ局は、質問を無視して退庁する舛添氏の姿を同じように捉え、翌日の新聞は「うやむや退場」(読売)などと同じように伝えている。どの報道を見ても似たり寄ったりであり、独自性に欠ける。放っておいても必ず誰かが取材し、世の中に伝えてくれる点にも特徴がある。

記者クラブを取材拠点にする大手新聞・テレビは、記者会見など発表モノを中心に今もコモディティニュースに傾斜している。同じ事件・事故に報道陣が殺到して起きる「メディアスクラム」も、コモディティニュース至上主義の延長線上にある。

かねて「脱コモディティ」が合言葉になっている産業界と比べると、マスコミ業界は時代錯誤的に見える。

ニュースのコモディティ化が進んだ主因はインターネットだ。ニュースはデジタル化されてネット上を通じて瞬時に駆け巡る。ソーシャルメディアやスマートフォンの普及も手伝い、従来型のメディアがニュースを独占する時代は完全に終わった。

新聞やテレビを見なくても「最後の登庁」について知っている人は大勢いるはずである。