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『真田丸』で話題のあのシーンを再現! 徳川家子孫が434年ぶりに「伊賀越え」に挑戦してみた

家康公脱出経路を辿る
花房 麗子

「自分はいま、ご先祖のあとをたどっている」

街道沿いの「小川城址入口」の看板前でバスを降り、ここからは徒歩で山道を登らねばならない。30分後にたどりついた標高400m強の山頂には、草に覆われた石垣と、数個の礎石が残っていた。家康が短い仮眠をとったとされる、多羅尾光俊の居城・小川城址だ。

小川城址を歩く徳川氏

山中にはへばりつくようにいくつもの館跡があり、疲労困憊した家康はおそらく山頂の本丸ではなく、標高の低い多羅尾の館に体を休めたのだろう。

家康を迎えた13年後、この小城は豊臣秀次に孫娘を側室に出していた光俊が太閤秀吉の勘気を被ったことで廃城とされてしまう。だが後に、一宿一飯の恩義を忘れなかった家康によって多羅尾家は旗本として迎え入れられて、4500石を拝領し、代々、信楽代官などを歴任。幕末まで存続している。

汗だくになって山を登りながら、徳川家広氏は「今、自分はご先祖のあとをたどっているんだ、と痛感してきました」と笑った。

徳川 徳川はもともと、三河の山奥、松平郷の出身ですが、武士であり、山賊であり、材木商であり、という生き方をしていたのでしょう。久能山東照宮のお祭では必ず木遣歌(林業の労働歌)を歌ってくれる方々がおられますし、私の曾祖父・徳川家達(宗家16代。徳川慶喜から宗家を受け継ぐ)にしても、葬儀の折に木遣り唄で送り出されています。

こうして甲賀伊賀の山あいを歩いていると、もしかしたら松平の原風景もこんな感じだったのかと親近感が沸きますね。

小川城址を下り、再びバス通りに出て674号線を走る。このあたりからは護衛も増えて、家康一行は窮地を脱した気分になったことだろう。伊賀(三重県)と甲賀(滋賀県)の境界のこのあたりについては、丸柱の宮田氏、柘植氏らの助力を得たという伊賀忍者の貢献説、和田八郎・山岡景隆ら甲賀忍者の貢献説が入り乱れている。