メディア・マスコミ エンタメ

『真田丸』で話題のあのシーンを再現! 徳川家子孫が434年ぶりに「伊賀越え」に挑戦してみた

家康公脱出経路を辿る
花房 麗子

いざ、第一の難関へ!

「信長には最後の最後まで、えらい目にあわされた、と、うちのご先祖は思っていたに違いありません」徳川家広氏は、こう苦笑しながらバスに乗り込んだ。車中で、早速、解説を始める磯田氏。目指すは、第一の難関、木津川越えである。

磯田 6月2日、家康は、信長のもとへ本多忠勝を使者として遣わします。明け方、堺を出た忠勝は、枚方のあたりで京都より早駆けで来た茶屋四郎次郎とばったり出会うのですが、このときの茶屋は『武徳編年集成』によれば、息が上がってしばらくは言葉も出ない有様。

しばらく息を整えるや、菅笠をあみだに跳ねあげて、京都のほうを指さすと、あの煙は明智光秀が謀反を起こしたためです、と忠勝に訴えた、とあります。実際に後世、京都で大火があったときに、その地点から煙が見えたといいますから、この記述は正しいのでしょう。

さて、忠勝は家康のところに取って返します。このときの家康が、うまい。前出の『武徳編年集成』の記述を続けてみます。

家康は少しも騒がず、「このうえは、飯森の社に籠って、(中国征伐に出陣するはずだった)丹羽長秀と連携して一戦したらどうか」と言うんです。本能寺の変を知ったけれども、家康はまだ信長の安否を確認していません。しかも家康の遊覧一行には、信長から長谷川竹丸という御付(監視役)がつけられています。

ここは、信長のために一戦する、という政治的パフォーマンスを家康はしなければならないんですね。そして家臣団が、阿吽の呼吸で、家康に反対する。忠勝が言います。「光秀を倒したいお心はわかりますが、この寡勢ではいかんともしがたい。ご帰国して義兵を上げましょう」と、本当は家康の言いたいことを長谷川の前で言ってくれる。

実際のところ、当日の動きを見ると、本多忠勝という人は、さすが歴戦の士であり戦の流れをよくわかっていたと思います。と同時に、明智光秀が決して戦巧者ではなかったという意見を掲げざるを得ません。まず明智光秀は、信長の遺骸を半日近くかけて探し、タイムロスをしています。

さらに本来ならば、中国攻めのため無傷で都近くに残っていた丹羽長秀の2万の軍勢と潜在的脅威である家康を分断するため、南西に向かうべきでした。本能寺で敵を屠って意気上がっている状態で急行して丹羽軍と激突し、大坂を占拠すれば、おそらく勝機もあった。本能寺の信長、丹羽と続けて破って、天下の要衝、大坂を支配下におけば明智の軍事的優位は周囲の大名たちに轟き、なびく者も出たはずです。

ところが、光秀が行ったことは、信長の遺骸が探し出せないとあらば、信長のシンボルである安土城を抑えなければと、京都を捨てて北東の琵琶湖畔に向かうことと、朝廷工作をすることだった。これだけでも光秀は軍事的地政学をまったく理解していなかったことがわかります。

逆に本多忠勝が、一刻も早く、堺・京を脱出すべきと主張したのは、まさに自分が敵将であれば、大坂の地に向かって進軍し、丹羽―徳川を分断して屠ることだと考えたからだとしか思えないのです。伊賀越えで忠勝は八面六臂の活躍をし、たびたび家康に進言もしている。有事に忠勝がイニシアチブをとったのは、至極当然と言えるでしょう。

左が磯田氏、老忍者が渡辺氏

さて、忠勝や酒井忠次、石川数正らの言を汲んで、家康は脱出を決めます。じつは、家康は、一朝京に事あらば、逃げる道筋を大方決めていた、という記述があります。『武徳編年集成』は、後代、8代将軍徳川吉宗に徳川幕府の開祖である家康の事績を進講するためのテキストですから、多少なりと誇張があるのは仕方がない。

ですが、政変の多い京で、何かに巻き込まれたとき、家康は脱出経路をおおむね想定してあったというのはあながち空想ばかりでもないでしょう。ただ、そんな家康でも工作しきれていなかったのが、これから行く宇治田原近辺でした。

阪神高速を下りたバスは、307号線に入って木津川の渡しを通り、宇治田原の「山口城址」へ。木津川あたりまでは、元武田の重臣・穴山梅雪が同行したことがわかっている。