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ヘビー級で世界と戦った男が明かす、K-1の過酷さと「舞台裏」【最強さん、いらっしゃい!第二回】佐竹雅昭・後編

公園で我流の特訓をしていた少年が、いつの間にか空手の日本チャンピオンになっていた!(前編はこちらをクリック)さらなる高みを目指し、佐竹雅昭は異種格闘技戦、そしてK-1の舞台へと足を進める。日本人ヘビー級選手として闘う中で、佐竹が見出した最強の意味とは――。

「前田日明さん、僕と戦ってください」

──時は80年代後半のバブル最盛期。プロレス界でも「新生UWF」という団体がまるでバブルのように一大ムーブメントを巻き起こします。空手日本一になった佐竹さんも、その影響を受けることになったかと思うんですが。

佐竹 モロ受けましたね。超満員の観客に華やかなレーザー光線にスモーク。「カッコええなあ」と。「そのエースの前田日明っていうのは、ポルシェに乗ってる」って聞いて「なにい!」と思いましてね。「この人に勝てば俺もポルシェに乗れる。よし挑戦しよう」と。あの当時の僕は「打倒前田日明路線」を掲げていましたが、その理由はここから来ているんです。

──ポルシェから来ていたと(笑)。で、打倒前田日明のために、具体的に行動に起こしたんですか?
佐竹 国立代々木競技場第二体育館で、サンボの大会があってね。「そこに前田日明も来る」という情報を仕入れていたんで、わざわざ上京して足を運んだんです。そしたら前田さんが本当に来ましてね。「おお、前田やあ」って思って、それでいきなり「あのー、前田さん、僕と戦ってほしいんですけど」って単刀直入に言って(笑)。

──いきなりすぎますよ!
佐竹 案の定、「そんなんいきなり無理や。段取り踏んで来い」って冷静に返された(笑)。最初はなんのことかわからなかったんだけど、「プロになってから来い」ってことだとそのとき解釈したんですよね。確かに空手っていうのはアマチュアだから。そうこうしてたら、全日本キックボクシング連盟から「(アメリカのキックボクサーの)ドン中矢ニールセンと戦いませんか」って偶然オファーがあった。

──ニールセンは前田日明とも異種格闘技戦で戦ってますからね!
佐竹 「おー、俺がやりたかったのはこれやあ」って。ルールはキックボクシングルール。空手ルールじゃないんだからね。契約体重だったから体重も落として、前歯も四本抜いてね。条件はみんな向こうの言い分を飲んだわけです。こっちとしては千載一遇のチャンスなわけだから、条件を四の五の言うてられへん。「これで負けたら前田日明どころじゃない」「これで負けたら先はない」っていう本当に必死の想いでしたね。

── 一世一代の大勝負でしたね、あれは。
佐竹 これを読んでいるビジネスマンの人たちにも言いたいのはね、人間って人生の中で必ず大勝負をしなきゃいけないときがある。それも、一回あるかないかですよ。そこで腰を引いてしまって後で言い訳するか、それとも真正面からぶつかって、新しい扉を開くかっていったら、それは後者でありたいでしょう。

大勝負の機会ってそうそうないんですよ、ぶっちゃけ。天はそんなにチャンスをくれないから。それが僕にとってのニールセン戦でした。

──実際それで扉を開きましたよね。あれがなかったら、その後の格闘技ブームってなかったでしょうから。
佐竹 それでなんとか勝ったんですが、次々にいろんなことが回り始めるんですよ。いろいろとあって僕が前田さんの団体である「リングス」に参戦することが決まった。前田さんと同じリングに立ってるわけやからね。サンボの大会のときに「段取り踏め」って言われてニ年程経過してましたよ。

──あのときに関してお聞きしたいのは、「リングス対正道会館」という対抗戦の形で、佐竹さんだけでなく他の人もリングスに参戦しましたが、佐竹さんだけがリングスに上がるということではなかったんですか?
佐竹 実は僕としては、これを機に正道会館を離れてリングスに入団したかった。最初はそのつもりで、一人でリングに上がるつもりでいたんです。そしたら館長が「お前だけやないやろ」と。そこは縦社会なんで「押忍」と。結局、リングスと正道会館の対抗戦という形に収まって。

──そんないきさつがあったんですね。