週刊現代
知の先進地帯・水俣で、なぜ世界でも類を見ない「産業公害」が起きたのか
二つの村の「運命の分岐点」をたどる
〔photo〕iStock

瀬戸際で工場の誘致は決まった

幼いころ、駅から海のほうに伸びる、草ぼうぼうの引き込み線で遊んだ記憶がある。さびたレールの突き当たりには、たしか煉瓦壁の工場跡があった。

大正期、私の故郷である熊本県・鏡町(熊本市から約30㎞南)にチッソの最新鋭工場があった、と前号http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48685)で書いた。

実は、熊本の地震で里帰りするまで私はそのことを知らなかった。引き込み線や工場跡のこともすっかり忘れていた。

水俣の街を歩き、チッソの歴史を調べるうちに鏡工場のことを知った。引き込み線や工場跡の記憶もだんだんよみがえってきた。そうか、あれがチッソの栄華の名残りだったか。

大正8(1919)年のチッソ鏡工場と水俣工場の年間生産能力を示すデータがあった。

[鏡工場]カーバイド4万5000トン、石灰窒素5万5000トン、硫安5万トン……
[水俣工場]カーバイド4万トン、石灰窒素5万トン、硫安4万トン……

どれも鏡が水俣を上回っている。それもそのはずだ。カーバイド-石灰窒素-硫安の一貫製造工程を日本で初めて確立したのが鏡工場だった。往時の鏡工場はチッソ王国のど真ん中を占めていたのである。

その前後の経緯をざっとご説明しておこう。チッソの創業者で、後の旭化成や積水化学の生みの親でもある野口遵は、東大電気科出身の技術者だった。

彼は鹿児島の鉱山師から「地元の金山を発掘するのに電気がほしい。そばに『曾木の滝』があるので(高低差を利用して)水力発電所を作ってもらえないか」と相談を持ち掛けられた。

野口はその話に乗った。飲み仲間から資金を集めて、明治40(1907)年、曾木に発電所を完成させる一方、余った電力を利用してカーバイドの大量生産に乗り出すことにした。

カーバイド工場の候補地として最初に挙がったのが、水俣の北方に位置する葦北郡佐敷である。佐敷には原料の石灰岩があり、船着き場もあった。

だが、地元から「そんな工場ができたら賃金が高くなって困る」と反対の声があがり、なかなか交渉がまとまらなかった。