週刊現代
佐藤優と学ぶ初級哲学②フッサールが教える「人生の無限の可能性」

社会人が哲学を学ぶ意義

「現象学」とよばれる哲学を始めたフッサール〔PHOTO〕gettyimages

前回、大哲学者として知られるヘーゲルの思想をお話ししました。今回は、哲学だけでなく芸術や文学など、20世紀のさまざまな文化に大きな影響を与えた、エトムント・フッサールという哲学者をご紹介します。

フッサールの著書も、非常に難解です。なので、専門家の間にさえ「あんな難しいものを読んでも仕方ない」という意見もあります。

ただ、皆さんがもし哲学者を誰かひとり勉強するならば、私はフッサールを薦めたい。なぜなら、彼の研究は、現代思想の取り組んでいる問題をほとんどカバーしているからです。

1859年にオーストリアで生まれたフッサールの実家は、ユダヤ系の商家でした。ですから晩年のフッサールはナチスの迫害に遭い、大学教授名簿を除名されたり、大学構内立ち入り禁止を宣告されたりしています。

フッサールの哲学をひとことで言い表すと、「世の中、理屈じゃないんだ」ということです。カントは世界を様々なカテゴリーに分けて考えた。ヘーゲルは弁証法や「絶対精神」といった概念で人の精神を説明した。でも、どちらも煎じ詰めれば「理屈」です。

古今東西のあらゆる学問は結局、言葉の使い方が違うだけ。壮大な世界観や、人々を鼓舞するような革命思想といったものも、しょせんは言葉遊びの幻想にすぎない。だから、フッサールはそれまでの論理学を厳しく批判しました。

さらに、フッサールはこうも言います。人間が何かを考える方法は、突き詰めると二通りしかない。ひとつは独断論、「とりあえず、私はこう思う」という地点からスタートするやり方。もうひとつは懐疑論、「誰の言うことも信じない、私の意見さえ本当かどうか疑わしい」という立場です。しかし後者の懐疑論を採用すると、何が正しいのか判断する基準がなくなり、迷路にはまり込んでしまう。だから、フッサールは独断論を採用しました。

ところが、ここでひとつ問題が出てきます。自分の考えていることが正しかったとしても、それを他人とどうやって共有すればいいのか。「自分ひとりだけが分かる言葉」というものはありえませんし、現実に私たちは、他人と言葉を使ってコミュニケーションしている。

そこでフッサールは、「共同主観性」という概念を考えました。つまり、「『正しい』と皆が思っていることは、皆が『正しい』と認めているから正しいにすぎないのだ」という考え方です。

たとえば日本では、いくら靴がキレイでも、他人の家に土足で上がることはできない。でも、欧米ではそれが当たり前です。あるいは「今、素っ裸になって外を走り回ってください」と言われてもできませんが、なぜできないのか、理由を説明するのは意外と難しい。世間で「正しい」とされていることも、少し見方を変えると、どうして正しいのか分からなくなってしまうわけです。

つまり、私たちが他人と分かり合うことができるのは、相手と共同主観性を分かち合っているからです。逆に言うと、自分ひとりだけが持っている純粋な「主観」というものは存在しない。すべての「主観」は、日本人なら日本人、欧米人なら欧米人といった、ある集団の中での「共同主観」なのです。もっと言えば、われわれが何気なく使っている「私」という主語も、本当は「私たち」と言うべきでしょう。

実際、何かを考えるとき、「完全に自分だけのオリジナルの意見」というものはない。多かれ少なかれ現代社会の常識や、メディアを通して得た知識に影響されているし、サラリーマンならサラリーマンの常識の中で考えているわけです。

人は、共同主観性から逃れることはできません。そして私は、この共同主観性という視点を身に付けることこそ、社会人が哲学を学ぶ最大の意義だと思っています。

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