週刊現代
高度経済成長が生んだ「大悲劇」〜「水俣病」公式確認から60年、近代日本の縮図
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故郷熊本の「近代史」

こんなに穏やかで澄んだ海を見たのはいつ以来だろう。

そう思いながら、私は岸壁の車止めに腰を掛け、疲れた足を休ませていた。水俣の市街地から広大な埋め立て地を回り、この湯堂湾に着くまで何時間も歩きっぱなしだったからだ。

そろそろ体力の限界だ。不知火海に赤い夕日が落ちる。目の前の水面でボラがぽちゃんと跳ねた。宿に帰ろう。明日もまた歩き回らなければならない。

熊本への里帰りで東京を発つ前、私は小さなリュックに読みさしの『新装版 苦海浄土 わが水俣病』(石牟礼道子著・講談社文庫)を放り込んでいた。

『苦海浄土』は数十年ぶりに読むのだが、やはり不朽の名作である。小説であれ、ノンフィクションであれ、これを凌駕する作品を私はあまり知らない。

その『苦海浄土』はこの湯堂湾の情景描写から始まる。

〈年に一度か二度、台風でもやって来ぬかぎり、波立つこともない小さな入江を囲んで、湯堂部落がある。

湯堂湾は、こそばゆいまぶたのようなさざ波の上に、小さな舟や鰯籠などを浮かべていた。子どもたちは真っ裸で、舟から舟へ飛び移ったり、海の中にどぼんと落ち込んでみたりして、遊ぶのだった。

夏は、そんな子どもたちのあげる声が、蜜柑畑や、夾竹桃や、ぐるぐるの瘤をもった大きな櫨の木や、石垣の間をのぼって、家々にきこえてくる〉

そして、湯堂に住む水俣病の少年九平が登場する。九平は不自由な手で棒切れを握る。目が見えぬのに石を拾って空中に放り投げ、それを棒切れで叩こうとする。野球のけいこのつもりだが、むろんかすりもしない。

漁師だった父は昭和35(1960)年、風邪がもとで死んだ。姉はその4年前に水俣病で死んだ。家にはもう漁労生活の中身を示す物は何一つない。かつて網や魚籠を干していた前庭はだだっ広いだけだった。

九平はラジオ、とくに野球中継が好きだ。よそから患者の視察や見舞いに来たりすると、彼はラジオの前にガンと座って振り向かない。市の衛生課員が集団検診を受けるよう説得しても動こうとしない。

母親が代わって「ほんなこてすみません。何べんも来てもろうて」と課員に謝り、「この世でああた、ラジオいっちょが楽しみですけん」と言う。
つづけて母親と課員との間でこんな会話が交わされる。

〈「柴田ちゅうのがおるそうですなあ、足の早かそうばい。柴田が走ったちゅうて、喜びよっとですがな。野球いっちょがたのしみで、ああた」

「はあ、柴田。あいつは早かですもんなあ、鹿のごて走るそうですたい。九平しゃん、長嶋はどうや」〉

この会話は私の半世紀前の記憶を一気に呼びさます。私も巨人軍の柴田勲選手のプレーに熱狂した。同じ時に同じ海を見て少年時代をすごした。ちがうのは九平が湯堂に生まれて水俣病を発症し、私が約40km北東の鏡町(現八代市)に生まれて水俣病にかからなかったことだ。

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