雑誌
佐藤優と学ぶ、目からウロコの「論理学入門」
社会人のための教養講座
小泉総理(右)は屁理屈の達人だった〔PHOTO〕gettyimages

この文章、どこがヘン?

社会人には「論理力」が不可欠です。文章の正しい読解や、部下の作った書類のミスのチェック、大事なプレゼンなど、論理的思考がものを言う局面は山ほどあります。

今回は、東京大学大学院教授で哲学者の野矢茂樹氏による『論理トレーニング101題』から例題を引きつつ、論理力の鍛え方を解説しましょう。本書は東大の教養課程などでも教科書として使われていて、楽しみながら論理学を学べる名著です。

まず、心がけたいのは、文章を書くときにはなるべく「なぜなら」「しかし」「また」といった接続詞を使うことです。

プロが書いた文章にも、接続詞の使い方が誤っているものは少なくありません。例えば、言語学の大家・大野晋氏が書いたこの一文です。

「近畿地方を中心に西日本では、女性や子供が一人称としてウチを使う。ウチは内であり、家であり、自分である(中略)相手をウチの人だと思うと急に親しくなり、特別の便宜をはかり、相手をソト者と思うとはっきり別扱いします。

それは古い体制の名残なのです。つまり、日本語社会では、人々は相手が自分に近いか遠いかについて鋭い感覚、区別をいつも内心で保っています(これが敬語の基礎の一つです)。だから、近しい扱いでは、しばしば親密さから、時によると相手を粗略に扱うことになります」

この文章の結論は、接続詞「だから」の後の「日本語社会では時に、親密な相手を粗略に扱う」ですね。確かに、現実にはそうかもしれません。しかし、論理学で扱うのはそういう常識論ではなくて、「この文章の中に矛盾があるかないか」です。

全体を要約すると、こうなります。「日本人は、相手が自分に近いかどうか常に鋭い感覚で区別している。だから、親しい人を粗略に扱う」。少し不自然ですよね。無関係な2つの命題が「だから」で結ばれているので、あたかも論理的な文章のように見えているわけです。

ここからは、文章の中に込められた論理だけでなく、文化などの「前提」が関わってくるので難しくなります。例えばこれ。

「テングタケは毒キノコだ。だから、食べられない」

この文章を読んで、おかしいと思う人は少ないでしょう。しかし、意地悪なことを言うようですが、暗黙の前提「毒キノコは食べられない」が本当かどうか分からない。実際にテングタケは、きちんと毒抜きをすれば食べられるそうです。

では、次の文章におかしな点はあるでしょうか。

「吠える犬は弱虫だ。うちのポチはよく吠える。だから、うちのポチは弱虫だ」

これは意外と難問です。「『吠える犬=弱虫』という図式は必ずしも成り立たないから、ポチは弱虫じゃない」という指摘も間違いではありませんが、もっと大きな論理の穴があります。それは「ポチは犬である」と、どこにも書いていないこと。もしかしたら、ポチは虎かもしれませんよ。

日常生活でこういうことばかり言っていると「屁理屈を言うな」と嫌われてしまいますが、あくまで論理力を鍛えるうえでは、こういう常識や前提を疑う力が大切です。

ここからは応用編です。

「日本の自動販売機は、商品を美味しく見せるための、メタクリレート樹脂でできた透明のカバーで、ショーウインドウのように覆われています。ところが、この美しい樹脂が自動販売機にそのまま使われているのは日本だけで、外国では使えません。なぜなら、メタクリレート樹脂はきれいですが、ハンマーで打ち壊せば簡単に砕けるからです」

……実は、これは排外主義的な言説です。「外国ならばどこでも、自動販売機は壊されて中身が盗まれる」、そして「日本では、そういうことはない」というのが暗黙の前提になっている。でも、本当にそうなのでしょうか。

「私は今年73歳になるオジンだが、脳梗塞、動脈硬化、白血病、前立腺癌、それに死を予告された末期の膀胱癌を抱えている。したがって本や新聞はいっさい読まない。テレビっ子である」

「したがって」とあるので、勢いで押し切られそうになりますが、大きな論理の飛躍がありますね。考えるべきは、この人がどんな暗黙の前提を抱いているのか。おそらく、こんな感じでしょう。

「余命いくばくもない私にとって、重要なのは今この瞬間だけだ。だから本や新聞のような、形に残り蓄積されてゆく情報は拒み、テレビのように、その瞬間に完全に消費できる情報に触れるべきだ」

論理学というと難しく思えますが、日常の言葉で翻訳すれば、なかなか面白いと思いませんか。

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