江戸時代の「絵画」をたよりに日本全国名所巡り!
歌川広重・東海道五十三次より「箱根湖水図」

文/鈴木健一(学習院大学文学部教授)

江戸時代の旅行ブーム

昨夏、大涌谷の噴火によって箱根の観光産業は打撃を蒙ったが、やはりリゾート地としての箱根の魅力は大きい。関所や神社など歴史的な建造物があり、気品が備わる。

印象派が充実しているポーラ美術館や、堀文子の逸品がある日本画の成川美術館、売店が充実している星の王子さまミュージアムなど文化施設も多くて、華やかだ。彫刻の森のピカソ館には、私がこの世で最高と思う美術品が展示されている。

また、スイッチバックが何回も味わえる登山鉄道の他、ケーブルカーや遊覧船、バスなど交通機関も多彩で、便利な上に楽しい。特にロープウェーに乗っていて突然目の前の眺望が開けるところは、眼下に大涌谷、眼前に富士山を見晴らせて、まるでパノラマの中にいるようだ。

夏休みに、仙石原にあるガラスの森のカフェテラスでお茶を飲み、名物のカンツォーネの生演奏を聴きながら涼風に吹かれていると、日常の憂さがすべて消え去っていくようで、とても幸福な気分にひたれる。夜は夜で、白濁した硫黄泉が体の疲れを癒してくれる。

おそらく日常から離れて自然や芸術に触れることで、こわばっていた心と身体がほぐされてくるのだろう。それを可能にしているのは、自然の持つ根源的な豊かさや、芸術の持つ繊細な感覚なのである。そういう経験は誰にでもあることではないだろうか。

さて、私の専門は江戸時代の文学である。

江戸時代には交通網も発達し、多くの人々が旅を楽しんだ。その前の時代までとは比べものにならないほど、旅そのものや諸国の風景・事物への関心は高まっていたのである。たとえば、「お伊勢参り」。人々が一生に一度は行ってみたいと願い、親や主人に黙って抜け出してしまったとしても、後で咎められなかったという。

また、実際の旅が体験されるだけではなく、紀行文や名所図会(図版が添えられた各地の案内書)類によっても楽しまれていた。江戸の紀行文と言うと、松尾芭蕉の『おくのほそ道』が有名だが、それ以外にも無数の紀行文が制作されていた。また、名所図会類の挿絵の精密さはすばらしく、現代のわれわれが見ても十分味わい深い。