雑誌
さよならフォード!
〜日本の自動車文化を支え続けた111年を振り返る

フォードGT

戦前より日本のモータリゼーションを支えてきてくれたフォードが日本市場からの完全撤退を決めた。またいつか会える日を願いつつ、さよならを言おう

フォードが年内に日本から撤退することが決まった。昨年の日本での販売台数は4968台で、輸入外国車のうちフォードが占めるシェアはわずか1.7%。「今後も成長は見込めない」と判断した。

1925年に日本フォードを設立し、マツダを傘下に収めるなど日本の自動車業界に大きな影響を与えていた巨星が、日本での歴史に幕を下ろすこととなった。

日本人があまり知らないフォードの話
去りゆく青い楕円へ(文/山口京一)

世界最大企業の一社、フォードとしては、あまりにも唐突な非外交的、反ビジネス的な撤退の発表だった。先例は多々ある。特にデトロイトスリーは、本国内においても複数ブランドを消滅させてきた。

フォードの日本、インドネシア撤退ニュースの翌日、クライスラー(FCA)は、より高収益なトラック増産のためにセダン2種の"無期凍結"を発表した。FCA投資者向け資料の3ページ目を占めるのは、マーク・トウェインのユーモア名言『私の死の報道は、ひどく誇張されてきたようだ』。文豪のみでなく、クルマ、ブランド、企業、国・地域市場に一脈通じるだろう。

ヘンリー・フォードが自らの姓を冠した自動車メーカーを設立したのは1903年だ。彼の名声を確立したのは、世界最初の流れ作業組立方式大量生産と、モデルTであった。モデルTは、1908年から1927年まで、1500万台が世界中で売れた。

フォードは、横浜子安に工場を建設、モデルTのKD(クルマ全体部品輸入)組立を開始した。同様にGMは大阪工場を稼働させた。

1928年フォードA型のカタログ。フランク・ロイド・ライトの旧帝国ホテルを背にした味のあるイラストだ

モデルTまでは、右側通行の欧米で大半の自動車は右ハンドル(狭い道路から転落を防ぐためなる説)であったが、ヘンリー・フォードは、左ハンドルを合理的とし、モデルTにおいて標準化した。ただし、1928年の日本フォードのモデルAカタログのすばらしいイラストは右ハンドルである。

私が幼い頃、祖母から聞かされた1923年関東大震災の話に出たのが、モデルTトラックシャシーの円太郎バスだ。電車不通になった東京市内の貴重な足だった。また、ごく稀に父が奮発したのがモデルAの円タク(シー)で、ジャンプシートに乗せられた。

1936年、多摩川河川敷の日本最初の専用コースの第1回レースに出場したのが本田宗一郎の濱松号だ。フォードシャシーに自製スーパーチャージャーをつけたフォードの4気筒エンジンを搭載した。レースプログラムには、クルマの国籍は米国と記されている。

太平洋戦争後、しばらくは国産車生産制限、原則として輸入禁止の自動車不自由時代が続く。私の輸入商社自動車部勤務期の社用車の1台が初代Fシリーズピックアップであった。米軍予備役将校の社長が個人輸入したものだ。奇妙な黄色でサビだらけだが、サイドバルブ3.9L、V8は頑丈そのもの。

自動車部の糧はBMWとBSAの2輪車で、その販拡のためレース活動をした。1958~59年、高橋国光(日本レース界の巨星)、伊藤史朗(ヤマハGP)、望月修(三菱F2)が乗るBMWとBSAをFシリーズで浅間サーキットに運んだ。フォードFシリーズは、過去32年間連続で全米最多販売車の地位を占めている。

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