週刊現代
田中正造「天皇直訴」をプロデュースした陰の人物
日本初の公害「足尾鉱山猛毒事件」
1895年ごろの足尾銅山の風景(photo:wikipediaより)

(←前回はこちら http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48402

巡り合った秋水と半山

幸徳秋水は大逆事件で処刑される3日前の1911(明治44)年1月21日、市ヶ谷の東京監獄から北京滞在中の石川半山(はんざん)あてに手紙を書いている。

半山は秋水と同じ故・中江兆民の門下生だった。しかも、前回ふれたように、田中正造の天皇直訴事件(1901年)の陰のプロデューサー役をつとめた男である。秋水はその半山にこう語りかけている。

〈兄の手紙うれしかつた、夢物語は奇抜だ、兆民先生在さばアンナことをいふかも知れぬ、併し人間誰でも一度は死ぬんだ、死といふことは問題ではないよ〉

夢物語は、半山が秋水のために書き送った架空の物語だ。夢の中で亡き兆民に会い、秋水のことを相談したら、兆民はこう言った……という展開らしいのだが、当の書簡が残っていないのでそれ以上はわからない。

秋水の手紙はさらにつづく。

〈問題は唯だ日本におれのやうな極重悪人が現出したといふことにある、おれは唯だ此問題を提供しただけで満足だ、顧みて四十年の生涯、甚だ幸福で、甚だ愉快であつた、そして最早親もなし子もなし財産もなし浮世の執着となるもの一つもなし、詢とに身軽に感じて居る、君と年十九歳初めて兆民先生の玄関で邂逅してから、常に君の厄介にばかりなつた、君はおれに取て真に得難き益友、知己の一人であつた、息のある中に深く感謝して置く〉

友情の厚さをうかがわせる文章だ。二人の出会いは1889(明治22)年に遡る。自由民権運動を弾圧する保安条例の公布で東京を追放された兆民は大阪・曾根崎に居を構え、秋水がその玄関番をつとめていた。

郷里の岡山から大阪に出てきた半山が兆民宅を訪ねると、秋水が家の前の小川で洗濯していた。それから二人は親しくなり、時勢を論じ合う仲になった。

秋水はその後、東京の中央新聞記者をへて都下随一の部数を誇る万朝報に入社。舌鋒鋭く藩閥政府を批判する名文記者として注目を浴びるようになる。

一方、半山も秋水と同じ中央新聞の記者をへて毎日新聞の主筆となり、「当世人物評」の連載で好評を博した。ハイカラ(=当初の意味は西洋かぶれ)という言葉を唱えて流行語にしたのは半山である。

秋水と半山が記者として成長していく過程は、足尾鉱毒事件が深刻化する時期とぴったり重なる。もともと二人は1901(明治34)年の直訴事件で各々の役割を果たすべく運命づけられていたのだろう。

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