いま噛みしめたい戦後思想界の巨人・吉本隆明が死の3ヵ月前に語ったことば

「自分も猫になればいいんです」
中沢 新一

二人の「相思相愛」には、余計なものがなにもない。幻想の構造の外にある「愛」だからである。それはイエスやブッダが語っていた「愛」でもある。どうしたらそんなことが起こるのか。フランシス子は猫として、世界の深い秘密を、ただただ唯物論的に体現していただけであったのだが、吉本さんと仲良しになることで、ぴたりと同体になれる「愛」の関係を生むことができたのである。

ではそんなふうに猫とぴたりと一致した関係をつくるには、どうしたらいいか。それについても吉本さんは明快な答えをもっている。

僕が思うに、猫さんと仲良しになるのにいちばんいい方法っていうのは自分も猫になればいいんです。「猫を飼っている」という感じじゃなくて、自分も猫化して、猫さんとおんなじになっちゃえばいい。(本書41頁)

ここに言われていることは、思想の極意そのものである。多くのすぐれた思想家が同じことを言っている。

たとえば吉本隆明が若き日に決定的な影響を受けた思想家の一人ヘーゲルは、実在とぴたりと一致した関係を生むことのできる「精神の生動化」の過程を、つぎのように表現する。本書のファンである女子たちからのブーイングが聞こえてくる気もするが、近頃まったく不人気な男性的知性の極致を示して見せるのも、たまにはいいものだろう。

抽象的な自己同一はまだなんら生動的ではない。肯定的なものがそれ自身否定的であるということ、このことによってはじめて肯定的なものは自己の外に出、変化のうちに自分をおくのである。だから、有るものは、自分のうちに矛盾を含んでいるかぎりにおいてのみ、しかも矛盾を自分のうちに容れ、持ちこたえる力であるかぎりにおいてのみ生動的である。(ヘーゲル『大論理学』)

「抽象的な自己同一」というのが、この場合、吉本さんのいう「余計なもの」である。それは「私」とか「人間」という同一性の中に収まっていて、外に出ていこうとしない。この「余計なもの」を否定し、壊し、捨て去ることができれば、はじめて自分の外に出ていって、実在の変化のうちに自分をおくことができる。そのときはじめて精神は生動的になれる。

仲良しになった猫が、その運動を誘い出してくれるのである。猫たちは、犬以上の能力をもって、人間を「人間」の外に誘い出す力をもっている。ほんとうに猫さんと仲良くなることができれば、そういうことがじっさいに起こる。猫という「動物」の生きる実在の運動に合わせているうちに、人間のほうも実在の変化のうちに身をおくようになり、「余計なもの」のない自分そのままの「うつし」になっていく。

猫の魅力について、女性編集者たちに向かって平易に語られた吉本さんの言葉は、そのままヘーゲル哲学の正確な「うつし」になっているのがわかる。じゃあヘーゲルの難解な表現なんか必要ないじゃないか、とも言えるが、吉本さんがその晩年にこんな見事な思考と表現に到達しえたのは、若い頃に難しい概念の武具で思考を鍛えておいたからである、とも言える。

しかし身につけたいっさいの武具を捨て去っていくのが、達人というものである。このインタビューで吉本さんはそういう達人になりきって、思想という技の極意を彼女たちに示している。そんなことが起きたのも、吉本さんが彼女たちの中に、フランシス子とよく似た「動物」の存在を感じ取ったからであろうと、私は推察する。

こうしてはじめて、「女性」の存在を媒介にして、吉本隆明の中に住む「動物」が、言葉の世界の表面に顔をあらわすこととなった。じつに死の三ヵ月前のことである。こんなことはめったには起こらない。これを奇跡と言わずなんと言おう。

(了)

*『フランシス子へ』の特設ページ(http://kodanshabunko.com/francis-ko/)では、本書誕生の舞台裏を明かした座談会が読めます。

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