いま噛みしめたい戦後思想界の巨人・吉本隆明が死の3ヵ月前に語ったことば

「自分も猫になればいいんです」
中沢 新一

共同幻想にも鏡の効果はつきまとっている。同じ言葉をしゃべり、よく似た価値観を共有している仲間たちは、ある意味で自分の「うつし」のような人々である。人間的構造をした「愛」を解明するために、吉本隆明はそういう幻想の構造を深く探究したが、そのどのレベルにおいても、「鏡=うつし」の効果が働いていることがわかる。

しかしフランシス子との「相思相愛」で生まれている「愛」は、そういう人間的幻想のつくりだす「愛」とは、どこかが根本的に違っている。吉本隆明は猫とつきあって、「合わせ鏡のような同体感」を感じると語っている。そのような同体感は、人間が相手ではどうやっても得られないような質をもっている。犬でもだめだ(犬好きの私は同意しないが)。猫でなければだめなのである。

それはなぜなのだろう。軽い挨拶がわりにはじまった猫の思い出話は、思いもかけず、吉本隆明の思想の根幹に触れてしまっていた。

 思想という技の極意

人間の心は、自己愛(ナルシシズム)という幻想的な構造を土台にしているから、どんなに好きな相手のことを忠実に反映しようと思っても、猫のようなしなやかさで相手の心の動きに寄り添っていくことはできない。だから人間的な「愛」は、自分勝手な部分をいつも含んでしまう。

ところが気のあった猫はそうはしない。言葉で相手のことを知るのではなく、「こっちがまだ『言葉』にしていない感情まで正確に推察して、そっくりそのまま返してくる」。こちらの神経組織に起こっている変化を正確に察知して、言葉以前の状態にある感情を推察し、自分の神経組織と運動組織をすばやく変化させて、こちらがそうしたいと(言葉以前に)望んでいる動きで、返してくる。

それを「うつし」とも「鏡」とも言うことはできるが、猫という鏡は、光の反射を利用したふつうの鏡を超えた作用をしめす。それは鏡の向こう側に広がる領域への通路を開く、「生きた鏡」なのである。だから猫への「愛」は、人間的愛の向こう側にある世界に触っていることになる。

そのことを、吉本隆明はこうも語っている。

猫さんほど忠実に自分を反映してくれる生き物はいないし、自分を鏡に映したような振る舞いかたで、ぴたりと合っている。

こっちが考えていることをそっくりそのまま表現しますからね。

余計なものはつけ加えずに。

猫さんのほうにはそれ以外のことはないんでね。そうしているっていうより、もともとそれよりほかにできないんだと思います。

だから自分そのままの「うつし」になることができる(本書40頁)

「余計なものはつけ加えずに」「自分そのままの『うつし』になる」。これは吉本隆明の思想の本質そのものであり、フランシス子という猫はその吉本さんの「うつし」になっていた。

新生・ブルーバックス誕生!