いま噛みしめたい戦後思想界の巨人・吉本隆明が死の3ヵ月前に語ったことば

「自分も猫になればいいんです」
中沢 新一

フランシス子への「愛」

「大思想家に私こんどはなにをお話ししたらいいのだろう」などというタクシーの中での杞憂は、吉本さんのお宅の前まで行ったら、すっかり吹き飛んでしまった。そこには何匹もの猫がたむろしていて、こちらを見るでもない、見ないでもないといった様子で、くつろいでいた。本の相談を始める前に、さっそく玄関先で見た猫たちのことを話題にした。するとたちまちに相好を崩した吉本さんが、自分がつきあった猫たちについて語り始めるのだった。

なかでも思い出されるのは、「フランシス子」という亡くなった猫のことであった。見栄えのいい猫でもないし、とりたてて賢いというわけでもなく、特別にかわいいのでもない。臆病で、ドジで、ぼおっとしているところのある猫。その猫のことを、吉本さんは「忘れがたい」といい、「相思相愛でした」とも語るのだった。

フランシス子はじつに自分によく似ていた、自分の「うつし」そのものだったとも語った。猫が飼い主の「うつし」であること。それは、人間がなぜ猫という動物に惹きつけられてきたかの秘密に触れていて、なかでもフランシス子は吉本さんにとっての「猫のイデア」そのもののような猫だった。

吉本隆明による「猫の魅力」の定義を聴こう。 

猫っていうのは本当に不思議なもんです。

猫にしかない、独特の魅力があるんですね。

それは何かっていったら、自分が猫に近づいて飼っていると、猫も自分の「うつし」を返すようになってくる。

あの合わせ鏡のような同体感をいったいどう言ったらいいんでしょう。

自分の「うつし」がそこにいるっていうあの感じというのは、ちょっとほかの動物ではたとえようがない気がします。

僕は「言葉」というものを考え尽くそうとしてきたけれど、猫っていうのは、こっちがまだ「言葉」にしていない感情まで正確に推察して、そっくりそのまま返してくる。

どうしてそんなことができるんだろう。

これはちょっとたまらんなあって(本書26〜27ページ)

フランシス子という猫は、なにからなにまでが吉本さんと一致する、「うつしそのもの」の猫だった、というのである。そういう猫と吉本さんは「相思相愛」だった。ようするにその猫を愛していたのであるが、吉本さんがこの本のなかで語っているフランシス子への「愛」は、たとえば『共同幻想論』で論じられたような人間的構造をした「愛」とは異なる、ということに注目する必要がある。

吉本隆明の猫への「愛」は、多くの愛猫家の場合とは少し異なっていて、ここでも彼は深いのだ。

個人幻想も、対幻想も、共同幻想も、すべての人間的幻想は、ある種の「鏡」の効果から発生してくる。つまり「うつし」の効果である。個人幻想はナルシシズムの機構から生まれてくるが、その機構は鏡像の中に自分の理想的なイメージを見出そうとする、「自己愛」的な心の働きからつくられている。

この幻想が生まれてくるとき、たいがい近くには母親の身体がある。母親を見つめる幼児の目。そこから対幻想の土台が形成されるが、その幻想では性愛の要素が絶大な力をもつことになる。そのため成長してからの対幻想的な愛の対象も、なんらかの意味での自分の「うつし」となり、その相手とうまくいくかどうかは、「うつし」の働きにかかっていることになる。