いま噛みしめたい戦後思想界の巨人・吉本隆明が死の3ヵ月前に語ったことば

「自分も猫になればいいんです」
中沢 新一

しかし、家族である女性たちや、つきあっていた猫たちには、吉本さんの内部に自分たちと同質の存在モードが生きていることが、はっきりわかっていた。吉本さん自身もそのことを自覚していた。

フランシス子へ』は、そういう吉本さんの内部に生きていた「女性」と「動物」を言語に取り出そうとした、とてもめずらしい本である。そして当たり前のことではあるが、その本は女性たちによってつくられた。

 男性のロゴスから離れて

それまでおもに絵本や児童書をつくってきた一人の女性編集者が、上司である男性の編集者に、「吉本隆明先生にお話をうかがって、本をつくってみたいのですが」と、相談を持ちかけている光景が目に浮かぶ。

(以下は想像である)なかばあきれた表情で、彼女を見つめる男性編集者。「君は吉本さんのこと、理解できるの? 『言語にとって美とはなにか』とか『心的現象論』とか『ハイ・イメージ論』とか、読んだことあるの? 本、難しいよ。それに吉本さんにいったいなにを聞くつもり?」。

男性編集者は自他共に許す吉本ファンで、その著作はたいがい読んでいる。彼から見たら、この女性編集者は吉本思想の世界に関しては、ほとんどド素人である。それに思想書を読むには児童書を読むのとは違う頭の部分を働かせなくてはならないということを、彼女はわかっているのだろうか。

しかし彼女には相当な自信があるらしい。「吉本先生には、女性でなければ引き出せない隠された魅力的な世界があるのです」。そう説得された上司は、はじめは半信半疑だったが、そのうち熱意に押されてとうとう許可を出す。本書の前身をなす『15歳の寺子屋 ひとり』という本のスタートは、きっとそんな感じだったのだろうと、私は想像する。

この編集者が女性のライターと女性のカメラマンとともに、新しいインタビューの本をつくるために、本駒込にある吉本邸を訪れた頃、その家には吉本さんを除いては、女性と猫しか住んでいなかった。

その状態は前からそうだったとも言えるのだが、近頃では論争好きの男性客も、吉本さんの体調を気遣ってかほとんど訪れなくなっていたため、いよいよ純粋に、吉本さんは女性と猫だけに囲まれた状態になっていた。

そうなると吉本さんの中から、議論好きのオスの鶏はいなくなり、強靱すぎるロゴスもおとなしくどこかに引っ込んで、それまで存在モードの奥に潜んでしまっていた「女性」と「動物」が表にあらわれて、目の前に座った女性と膝に乗っている猫の波長に合わせて、ゆっくりと語り始めるのであった。

同じ話題が繰り返されることもある。記憶が飛んでしまっているところもある。思い違いをしているところもある。しかしそんなことはどうでもよいのだ。とにかくここでは、いままで家族である女性たちや猫たちしか知らなかった、吉本隆明の中の「女性」と「動物」が話し始めているのである。

いままでは男性のロゴスをもって書かれていたことが、今日は「女性」と「動物」の思考を通して語り直される。猫のこと、ホトトギスのこと、親鸞のこと、死ぬということ。そうしたテーマが「動物」の思考を通して語り直され、「女性」の思考を通過したうえで、言葉に記録される。

すると吉本ワールドの風景ががらりと変化するように思えるから不思議である。難解な概念や緻密な論理の組み立てとは、思想にとって何なのだろう。思想がわかる、とか、わからない、というのは、どういうことなのか。『フランシス子へ』という小さな本が突きつけてくる問いは、思いのほか、深い。