いま噛みしめたい戦後思想界の巨人・吉本隆明が死の3ヵ月前に語ったことば
「自分も猫になればいいんです」

戦後思想界の巨人・吉本隆明が、その最晩年に語り下ろした小さな本がある。『フランシス子へ』。この本は、それまで吉本が見せてきた「男性的な顔」とはまったく異質の手触りを持っている。その魅力を中沢新一さんに解説してもらった。

文/中沢新一

吉本隆明の中の「女性」と「動物」

吉本隆明はよく人と論争をする人で、そういうときは江戸っ子が着物の袖をたくし上げるようにして喧嘩の姿勢をとるのとそっくりの仕草をした。

季節が夏で着ているのが半袖のワイシャツであっても、何度も短い袖をたくし上げる動作をして、自分の気持ちはいま喧嘩腰である、という無意識の信号を相手に送った。そういうときの議論の相手はほとんどの場合が男性で、私はしばしば、オスの鶏同士が闘鶏をしているみたいだ、と見惚れたものである。

吉本隆明(よしもと たかあき)
1924年、東京・月島生まれ。詩人、文芸批評家、思想家。2012年3月16日逝去。〔撮影:関夏子〕

議論が一段落すると、吉本さんは一人で居間の隣にあるキッチンへ移動して、そこのテーブルに座っているお嬢さんや奥さんに話しかけ、会話を始める。奥を覗いた私が驚いたのは、そのときの吉本さんの存在モードの全面的変化であった。

ついさっきまで別のオスと闘っていたオス鶏の吉本隆明が瞬時にして消え去り、まるで陽だまりの縁側でほっこりしている猫のような、まろやかな動作や物言いをしている別の吉本さんがテーブルに座って、女性たちと穏やかに会話をしたり談笑したりしていた。

ところが居間に残された男性の論客たちは、あいかわらずカッカして、頭の中で議論の続きをやっている。しばらくすると吉本さんが戻って来る。きれいな白い猫が後をついてくることもある。もとの座布団に座り直した吉本さんは、最初のうちはおとなしい猫のようにうつむいて、論客たちの熱い話に耳を傾けている。なにかの話題が心に引っかかる。その瞬間それまで静かな猫のようだった吉本隆明がいなくなって、かわりに獰猛な闘鶏に変身した吉本隆明が語り出すのである。

吉本さんの家には、そういう論争好きの男性たちが、たくさん出入りしていた。彼らの目的は吉本さん本人や別の敵対的「吉本派」の男性たちと論争することにあったから、稀代の思想的論客吉本隆明を目の当たりにすることが、なによりの喜びであったのだろう。彼らには、オス鶏である吉本さんしか見えていないし、またそういう吉本さんにしか関心がなかった。

しかし、そのオスの闘鶏としての吉本隆明というのは、吉本さんが取りうる存在モードの一面しかあらわしていない。

家族である女性たちと飼われている猫たちは、そのことをよく知っている。論争の闘鶏におけるチャンピオンである吉本さんは、論争好きな男性たち相手にあくまでも存在モードの一面を炸裂させているだけであって、自分たちに向かっているときの吉本さんは、まったく別の生き物として振舞うということを、家族である女性たちも猫たちもよくわかっている。

私がひそかに思っていたのは、小ぶりのオス鶏たち相手に居間で論争をしている吉本さんのことを、ひょっとするとこの家の女性も猫もほんとうはあまり好きではないのだけれども、しようがないから我慢しているのではないか、という不謹慎な疑いだった。

私の見るところ、「吉本隆明」という存在モードはきわめて豊かで、その内部には強靱なロゴスをもって思考する「男性」ばかりではなく、「女性」と「動物」が生きていたのである。思想家としての側面ばかりが注目されるとき、彼の内部の「女性」も「動物」も見えなくなる。ことに吉本さんの周りにいた多くの政治的アクティビストたちには、そのことが見えていなかった。