田原総一朗が回顧する60年安保の真実「私は何も知らずに"岸はヤメロ!"と叫んでいた」
「戦後レジームの正体」第11回(後編)
1960年6月13日、岸内閣打倒、安保「改悪」反対デモ。しかし、この中の一体何人が、実際の条文を読んでいたのだろうか。〔photo〕gettyimages

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新しい日米安保条約

1952年11月に、内灘の米軍試射場反対事件が起き、つづいて砂川事件が起きた。そして56年には警官隊との衝突で887人の重軽傷者が出た。

さらに、砂川事件について、59年3月には東京地裁が米軍駐留を違憲とする判決を出した(最高裁は、この判決を破棄)。また、57年1月には米兵が薬莢拾いをしていた主婦を米軍演習場に誘い込んで撃ち殺すという、ジラード事件が起きて、日本人の反米感情が大変強まった。

そこで、駐日大使のダグラス・マッカーサー(マッカーサー元帥の甥)は、日本人の非武装中立意識が高まり、安保条約廃絶の機運が高まるのを恐れて、岸首相と秘密の会議を重ねる中で、「事前協議」、そして「日本防衛の義務を負う」など、条約改定の提案をした。

もちろん、マッカーサーは、アメリカ本国にも日本の反米感情の異常なまでの高まりを伝え、安保条約を大きく改定すべきだと求めていた。

実は、アメリカは岸には、内外の共産勢力と戦うためにCIAから資金を提供するなど、岸を相当信用していて、そのために条約改定が順調に進んだと言えるのだろうが、実は重光外相の条約改定には、米軍基地を縮小するという項目があったのに対して、岸は基地縮小を求めていず、むしろ日米関係の強化を求めていたのである。

57年6月16日、岸は首相として最初の訪米を行った。アイゼンハワー大統領やダレスと安保条約改定問題を討議するためだった。

事前にマッカーサー大使が段取りをつけていて、討議は、おたがいに項目を確認し合うだけであった。アイゼンハワーもダレスも上機嫌だった。討議の前に岸はアイゼンハワーとゴルフをし、ともに裸でシャワーまで浴びていた。

基地についての事前協議を行う、ダレスが主張した集団的自衛権は棚上げにして、日本防衛の義務を負う、そして条約の期間は10年、ということになった。あきらかに大きな改善であった。

そして60年1月19日にワシントンで、新しい日米安保条約が調印された。