『あさが来た』広岡浅子だけじゃない 名門女子大を作った“豪傑”たちをご存じですか?日本女子、津田塾、、東京女子、東洋英和、聖心、フェリス

2016年03月22日(火) 週刊現代

週刊現代賢者の知恵

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もちろん、浅子自身も身銭を切って設立に尽力した。実際、同大の目白キャンパスは浅子の実家である小石川三井家の所有地を譲り受けたものだ。

そうして、明治34(1901)年、日本女子大学が開校。浅子自身も創設に尽力した関係者として入学式に参加するのだが、それが劇中第1話のシーンというわけだ。

様々な名士を巻き込んだ浅子と成瀬の大プロジェクトは見事に成功した。一方、他の女子大学に目を向けてみても、その創立には多くの有名人が登場する。

傑物だった津田梅子

明治33(1900)年に津田塾大学(東京都小平市)の前身となる「女子英学塾」を創立した津田梅子は、6歳の時に日本初の女性留学生の一人として岩倉具視使節団とともに渡米した。

17歳までアメリカで過ごした梅子は帰国後、その英語力を活かし、伊藤博文宅で通訳兼家庭教師として住み込みで働くが、再び留学することを決意。その時に、本格的な女子教育に身を捧げようと決心したという。

「梅子が女子英学塾を開校する際の資金は、留学していた時の友人や支持者たちが作った『フィラデルフィア委員会』を通じて、主にアメリカの友人や有志の方々の寄付によって支援されていました。

梅子は24歳の時、2度目のアメリカ留学をしますが、その際に様々な人に『女子の高等教育機関を作りたいと考えている』ということを話していた。その友人たちを中心に同委員会ができたそうです」(津田塾大学・津田梅子資料室)

35歳で英学塾を立ち上げた時、梅子は英語教師として華族女学校で働いており、女性としては高額の給料をもらっていた。とはいっても、日本の財閥や企業から大々的な資金援助なしで一から学校を立ち上げるのは容易ではないはず。実際、梅子が持っていた資金はわずか800円。現在の金額にすると400万円ほどしかなかった。

そこで、前出の委員会に協力を依頼し、創立に漕ぎつけることになる。委員会からの寄付は累計で数百万円にも及び、当時、一つの学校がこれほどの金額を外国人の寄付だけで集めるのは前代未聞のことだった。

『あさが来た』内で、女子大設立のためにどのようにお金を工面するのか問われた成澤は、「西洋では多くの学校が寄付によって成り立っています。建学の精神に賛同してもらい、その方々から寄付を集めるのです」と答えている。

若くして外国人の友人たちに女子教育の重要性を説き、地道に寄付を募った梅子。史実では、成澤の志を体現したのは浅子よりむしろ梅子だったのかもしれない。

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