文学BAR
2016年03月13日(日) 佐藤 優

佐藤優が戦慄を覚えた小説
「これは、日本の近未来ではないか?」

講談社文芸文庫・私の一冊

upperline

 文/佐藤 優

「ああ玉杯に花うけて」は、旧制第一高等学校(東京大学教養学部の前身)でよく歌われていた寮歌の冒頭箇所だ。昭和初め(1920年代後半)の埼玉県浦和町(現さいたま市)を舞台に、没落して貧困にあえぐ母子家庭の青木千三が、努力に努力を重ねて、一高に合格するというサクセスストーリーを軸に、さまざまな人間模様が描かれる。

小学校時代、成績がトップクラスだった千三は、家に経済力があったならば、浦和中学(埼玉県立浦和高校の前身)で学んでいるはずだった。しかし、それがかなわずに、現在は伯父の豆腐屋で、毎朝、行商をしながら、かろうじて生計を立てている。

浦和中学の生徒には、貧困にあえぐ千三を馬鹿にし、遊び半分で暴行を加える輩もいる。そのような中で、小学校の同級生だった柳光一だけは、千三の人格を認め、変わらぬ友情を示す。光一は、裕福な父と相談し、千三の学費を負担する態勢を整える。

〈「お志は感謝します。だが柳さん」
千三はふたたび沈黙した。肩をゆする大きなため息がいくども起こった。
「わがままのようだけれどもぼくはお世話になることはできません」
「どうして?」
「ぼくはねえ柳さん、ぼくは独力でやりとおしたいんです、人の世話になって成功するのはだれでもできます、ぼくはひとりで……ひとりでやって失敗したところがだれにも迷惑をかけません、ぼくはひとりでやりたいのです」〉
(61〜62頁)

他人の支援は受けず、自助努力のみが成功の秘訣であるというメッセージが本書の随所から伝わってくる。

帝大を卒業し、官僚になったにもかかわらず、退官し、浦和で私塾を運営し、貧困層の子どもに勉強を教える黙々先生の〈力はすべて腹からでるものだ、西洋人の力は小手先からでる、東洋人の力は腹からでる、日露戦争に勝つゆえんだ/(中略)学問も腹だ、人生に処する道も腹だ〉(188頁)という極端な精神主義に忠実に従い、千三は成功する。

社会的格差が進行すると、精神主義だけが頼みの綱になるのだろう。近未来にこの小説に描かれたような社会が日本に再出現する可能性を恐れる。

「IN☆POCKET」2016年2月号より


このエントリーをはてなブックマークに追加 RSS
関連記事


underline
アクセスランキング
1時間
24時間
トレンドウォッチ
編集部お薦め記事