【ルポ】石巻と南相馬、被災地でいまなお続く「風評」との闘い

震災後初の水揚げ。直径10センチほどの丸々としたホヤがこぼれる=2014年6月

写真・文/寺島英弥(河北新報編集委員)

「蒸しホヤ」は風評・風化の突破口となるか

宮城県石巻市の牡鹿半島の先端、鮫浦(さめのうら)の漁師、阿部誠二さん(32)を初めて取材したのは2014年6月下旬だった。

三陸海岸の南端にある鮫浦湾は、珍味として知られるホヤ(海鞘)の希少な天然種苗の採取地で、昔からホヤ養殖は漁業者たちの生業の柱だった。その朝、11年3月11日の大津波で湾内の集落が壊滅し、養殖施設も全滅して以来、ホヤ復活を懸けた初水揚げがあった。

赤茶色の丸々とした塊が海から次々に揚げられた。船上でロープを引っぱる誠二さん、二人三脚の父忠雄さん(65)の顔がほころんだ。殻にナイフを入れると、黄色いとろりとした身が現れる。ほおばると、微妙なえぐみが甘さに変わり、深い味わいは健在だった。

湾内の養殖棚から船で10分ほどの鮫浦漁港は、入り口の防波堤が破壊されたままで、しけのたび荒波が流れ込む。1メートル余りも地盤沈下した岸壁は応急補修のまま状態で、阿部さん親子の漁船の一隻も大しけで流され、壊れた。

28戸あった鮫浦集落は跡形もなく、阿部さんの一家は自宅跡に作業テントを建て、車で約10分の仮設住宅から通っていた。

ホヤの養殖では、種付けの受け皿となる大量のカキ殻を数珠のように結んで海に垂らす。11年秋から山梨県の社団法人「REviveJapan」などのボランティアが遠路通い、がれき片付けとともにカキ殻を拾い集め、以来、一番手間の掛かる作業を毎年続けてくれている。

同じ養殖ものでもカキ、帆立は1~2年で出荷できるが、ホヤの成長は3~4年を要する。その間はヒラメやタラを捕って収入をつなぐほかなかったが、その漁に使う船を流された阿部さん一家は耐乏を強いられた。

3年を経て復活したホヤは震災前の半分程度の量だったが、大きく育ち、初水揚げの喜びは大きかった。が、復旧の遅れた漁港の風景と同様の大きな問題が、前途に横たわっていた。

「販路が未開拓なんだ。販売応援のイベントには持っていくつもりだが」

誠二さんが語ったように、ホヤの売り先はどこにもなかった。震災前は、水揚げ量の7、8割を九州などの業者が漁港で買い付け、水槽に入れて韓国に輸出した。海鮮料理やキムチの材料に引っ張りだこだったという。

ところが、はるか南の福島第1原発事故からひと月後の11年4月、東京電力が11500トンもの汚染水を海に放出したことがきっかけで、福島県内の漁獲自粛とともに、アジアの国々で東日本の水産物の輸入規制が始まり、韓国へのホヤ販売は完全に途絶えた。

「ホヤは足が早い(傷みやすい)。保冷パックで2日と持たず、築地にも多く出ない。だから、地元以外に、味が遠くまで伝わらなかった」

「蒸しホヤ」という伝統食がある。ホヤを捕る漁師たちの伝統の保存食で、阿部さんの家では殻付きのまま切り、内臓を抜いて日本酒で蒸し、味付けをする。

「これなら真空パックで保存でき、遠くまで届けられる。そのまま食べても、麺類やパスタに入れてもうまい。これを商品化できないか」

販路の壁を破れるかもしれないアイデアを、誠二さんが膨らませたのは14年の冬だ。「漁師1人の力では限界」と、長年のホヤ買い付け業者で、鮫浦から近い大原地区に水産加工場を再建した「やまき」社長の佐々木清孝さん(57)に相談すると、早速、試作品づくりへと話が弾んだ。

「自分もホヤを韓国に売っていたが、自前で商品化をしないことには先に進めない。やってみる価値のある挑戦だ」と佐々木さんも前を向いた。2年目の水揚げシーズンが始まる15年5月ごろを目標に、商品化の模索が始まった。

佐々木さんは試作品づくりのために蒸し加工の機械を入れ、さらに新しいパートナーを連れてきた。やはり津波のためホヤの養殖を断念した、隣の女川町の阿部邦晴さん(68)、知子さん(66)夫妻だった。2人は震災前、「蒸しホヤ」を作っていた経験があり、味付けの作業を任された。

「うちの蒸しホヤは塩で味付けしたが、誠二さんの家では酒蒸し。それぞれの良さを合わせて生かし、それ以上にうまい味を吟味したい」

2人は、誠二さんが毎朝水揚げする新鮮なホヤを材料に、工夫を重ねた。佐々木さんの加工場で働く8人のスタッフが一緒に味見をし、「皆がうまいと思う味」で決めた。

ついに模索が実ったのは同年6月。完成した商品は「宮城県鮫浦港 栄漁丸 活ほや蒸し」。栄漁丸は誠二さんがホヤ養殖に使う船の名前で、生産者である誠二さん、忠雄さん親子の写真が袋を飾った。

蒸しホヤを商品化した(右から)佐々木さん、阿部誠二さん、阿部さん夫婦=2015年5月、石巻市大原

日本からの水産物輸入規制の見直しを検討する韓国の専門家委員会の第2次調査団が13日、八戸市の郊外型食品市場「八食センター」などを視察した。調査団は、研究機関や消費者団体のメンバーら9人の委員と政府関係者ら計15人で構成。(中略)初日の視察後、同行する杉中淳・水産庁加工流通課長は「放射性物質のモニタリングをしっかり行っていることを説明したい」と話した』(15年1月14日の河北新報より)

韓国が輸入規制を解除するのではないか、という期待が水産関係者に湧いたのが、この時期だった。しかし、同年5月22日は次のようなニュースが流れた。

東京電力福島第1原発事故を理由として韓国が日本からの水産物輸入の規制を強化している問題で、政府は21日、世界貿易機関(WTO)への提訴に向けた手続きに入ったと発表した。規制には科学的根拠がなく、不当な差別だとして、日本からの全ての食品輸入について規制撤廃を求める。(中略)韓国政府は21日「規制は国民の安全を考慮した措置だ」として遺憾の意を表明した

巨大な「風評被害」とも言える輸入規制は続く。

誠二さんが可能性を抱いたのは、全く新しい消費者たち。11年から毎年、養殖の準備作業などを手伝いに通ってくれる人々の縁だった。

山梨や首都圏から訪れるボランティアの多くが生きたホヤに初めて出合い、昼食のおかずやお茶請けに出されるお手製の蒸しホヤの味を知った。米国の大学生グループがやって来た際にも、アフリカ出身の若者が「うまい」とほおばった。

「千人以上のボランティアと出会い、ホヤの味に触れてもらった。世界の人に通じる味だという自信も生まれた。それが財産になっていた」と誠二さん。

友人になったボランティアたちからは「地元で紹介したい。蒸しホヤを送って」とメールが相次ぎ、フェイスブックなど広めてくれた。そんな友人たちの紹介から「うちの店で使いたい」という予約も山梨、福島、神奈川各県から届き、「送った先でも多くの人がうまさを知ってくれた」と、阿部さんは手応えをつかんでいる。

50人乗りのバスで鮫浦を訪れた「REviveJapan」一行を取材したのは同年9月下旬。新たな種付け用のカキ殻を結ぶ作業の合間に、野口正人代表(韮崎市)がこう語った。

「前日に甲府駅前で被災地支援のイベントを開き、気仙沼のサンマを焼いて、蒸しホヤも販売し、盛況だった。自分もここで阿部さんの蒸しホヤを食べて、うまいと思った」

「ホヤを含めて東北産の水産物にまつわる風評は、まだ払拭されていないと感じる。『まだ(被災地に)行ってるの?』と言う人もいる。でも、自分たちはもう150回以上も東北3県にボランティアバスを出し、述べ5000人以上が参加してきた。阿部さんらを知り、関わった一人ひとりが『風評・風化』の突破口であり、応援の営業マンだと思っている」

誠二さん自身も各地のイベントに蒸しホヤを出品し、売り込みに歩く。

鮫浦漁港の復旧工事はいまだ遅々として進まないが、高台にようやく移転地が造成された。一家の新居が同年11月に完成したばかりだ。

「風評の壁を破る力は人のつながり。津波で失ったものは大きく、復興には程遠いが、何にも代え難い新しい財産ができた。いまは食べてくれる人のために、ホヤを育てたい」と話す。

*連絡先は「やまき」 TEL:090(4043)1998/FAX:0225(24)2459

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