あの日から5年。それでも海と、陸前高田で生きる~ある漁師の小さな闘いの記録
震災直後の県立高田病院

5年前の、あの日

2011年3月、地震の揺れの影響で歪んだままの東北道を走り、北へ北へと向かった。目指していたのは岩手県陸前高田市、あの当時、義理の両親がこの街で暮らしていた。

朝日に照らし出された市街地は、累々とどこまでも瓦礫に覆われていた。「生きていたら奇跡かもしれない」とその場に立ち尽くした瞬間を、今でも鮮明に覚えている。

幸い義父は勤めていた県立病院の4階で一命をとりとめた。当時の病院は地震の影響で一部停電状態にあり、義父は看護師さんと交代で、重症の患者さんの人工呼吸を続けていた。

「そこに波がどっと押し寄せてきてね。患者さんが横たわっているマットが波に勢いよく浮き上がったんだ。そこにしがみつきながら人工呼吸を続けたんだよ」

義父はなかば興奮気味に話した。あの時の緊張状態が、数日経っても義父の中では続いたままだった。

一方、どの避難所を回っても、義母の姿を見つけることが出来なかった。あっという間に2週間ほどが過ぎ、私たちはやがて避難所巡りを諦めた。

その先に待っていたのは、ときに何十ものご遺体が並ぶ安置所巡りだった。この場所に足を運ぶ、ということは、生きている望みを捨てることでもあった。

義母を探すためのチラシを避難所に配り歩く

2011年4月9日、義母は気仙川の上流を9キロも遡った瓦礫の下で、地元の消防団によって発見された。濁流にこれだけ押し流されてもなお、彼女は家族のように大切にしていた2匹の犬の散歩ひもを、その手に握りしめたままだった。

「淳子は生前手話の通訳として活動していました。地震の多い地域です。今回の震災に限らず、大きな揺れに見舞われて津波警報が鳴ると、真っ先に耳の不自由な人のところに走ったそうです。きっと今回も……」

葬儀の日、そう語る義父の無念に、かける言葉が見当たらなかった。

あまりにも大きな悲しみに覆われた街を前にして、こう思わざるを得なかった。「人はさぞかし、海を恨むだろう」、と。そしてこれだけ破壊された街に、どれほどの人が戻ってくるのだろうか、と。

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