読書人の雑誌『本』
小津安二郎が映画史に残したもの~「永遠の現実」はこうして切り取られた
映画『東京物語』より〔PHOTO〕gettyimages

文/前田英樹(立教大学教授)

「ただ、在る」ということの美しさ

今度、『小津安二郎の喜び』(講談社選書メチエ)という本を出してもらったので、そのことを書く。

もう二十数年前の話になるが、私は『小津安二郎の家』(書肆山田)という本を書いたことがあって、それは小冊子と言っていいほどの小さい本だった。今になって振り返ると、この本を書いたことは、私にとって重要な転機になったように思う。

その頃、私は〈言語それ自体〉といったものが在るのか、在ればそれはどういう性質の存在なのか、というような頼まれもしない問題に取りつかれて難儀していた。『沈黙するソシュール』(書肆山田、のちに講談社学術文庫)は、その問題に当たって砕ける調子で書いたもので、自分で一生懸命に発明した袋小路が行くところまで行っている。

小さな小津論を書く経験は、この袋小路から私を救ってくれたかもしれない。言語それ自体とは何か、というような抽象の極限を行く問題から、眼の前にほんとうに在るいろいろな物や人間と、直に、深々と繫がっている路へと移ることができた、そう言ってもいいだろう。このことは、私にとって大きな喜びになった。この喜びは、思いもかけぬ自己発見になった。

実際、小津安二郎の映画は、〈在るもの〉を視る深い喜びに私たちを復帰させる。こういう働きを持つ映画を撮った監督のなかで、小津は映画史上最高の人だろう。

灰皿に置かれて煙をくゆらせる煙草一本、壁掛けから床板に落ちる帽子ひとつ、陽の降り注ぐ防波堤に立っているビール瓶一本、その向こうに視えている白い小さな灯台。これらの物が、小津のフレームのなかで知覚されると、物はどこまでもその物自身の性質を持ち、同時にフレームの外に拡がる宇宙の全体を啓示するようになる。

それは、小津が駆使する技巧によってではない。映画という〈機械による知覚〉の本性を、あくまで純粋に、率直に突き詰めた結果として、そうなっているのだ。ここで、私たちの眼は、日常品を通しての宇宙の顕われ、という一種の奇蹟に立ち会う。

もちろん、物だけではない、人もまた、そんなふうにして在る。写されるビール瓶は、日常の用途を示す現実的な容器であるのと同時に、物それ自体として在り、そのことがフレームの外の宇宙の拡がりを、一挙に啓示してしまう。

写される人物はというと、その者は、映画の筋立てが示す現実的な役柄を示すと同時に、人間がそこに置かれて在ることの汲み尽くせない奥行きを一挙に啓示する。物であれ、人であれ、それらをそこに、そのように置く何ものかの働きが、はっきりと啓示されるのである。

とは言っても、物と人とは、すっかり同じというわけにはいかない。物と違って人は行動し、行動に必要な記憶を負っているからだ。