週刊現代
文豪・森鴎外が手に入れられなかった「名誉」とは
下らない政治に奉仕した才能
[image:iStock]

心中にあった「不遇感」

森鴎外は、息を引き取る3日前の大正11(1922)年7月6日、盟友の賀古鶴所に奇妙な遺言を書き取らせている。

「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルゝ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス…宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ」

文中に「宮内省陸軍」とあるのは、鴎外が陸軍医務局長を退任後、帝室博物館総長兼図書頭に任じられたことによる。要するに、彼は自分が生涯を捧げた二つの役所の「栄典」を一切拒否すると言っている。

それまで鴎外は勲一等などの叙位叙勲を何の抵抗もなく受けてきた。なのになぜ、死の間際にこんな言葉を発したのか。近代文学史の大きな謎である。

『人間臨終図巻』の山田風太郎は〈呪詛と悲哀に満ちたふしぎな遺言〉と言い、ドイツ文学者の高橋義孝は〈鴎外の自負に相当する地位、名誉を与えられなかったことに対する悲しみの表白〉と述べ、評論家の江藤淳は〈長閥に対する恨み、あるいは厭味にちがいない〉と言った。

表現は違っても、3人の視線は鴎外の心中にある不遇感に注がれている。では、軍医としても作家としても頂点を極めた鴎外のどこが不遇だったのか。

その疑問を解くカギを山崎國紀の『評伝 森鴎外』(大修館書店)が提示している。山崎は、鴎外の晩年に起きた上院占席問題の重大さを指摘する。上院占席とは、貴族院議員(この場合は勅選)になることを指す。

大正5年春、鴎外は陸軍医務局長を退任した。そのころ彼は貴族院議員や男爵候補として新聞で取りざたされた。とくに貴族院入りは有望視されていたらしく、賀古はその情報を一度ならず手紙で鴎外に送っている。

「大隈(重信)伯ハ森ハ貴(族)院に入れると確言されたり」(大正5年7月)「宴席にて田中(義一・参謀次長)も大島(健一・陸相)も森さんの事ハ確定と申候」(翌年4月)。

では、鴎外はこうした動きにどう反応しただろうか。当時の彼の心境を表す書簡が残っている。軍医界の長老・石黒忠悳男爵(山県有朋の腹心)への礼状である(以下、意訳)。

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら