自民党の「力の源泉」は何だったのか? 派閥の功罪と日本型多元主義
「戦後レジームの正体」第9回(後編)
中曽根政権期、「日本型多元主義」は黄金時代を迎えた〔photo〕gettyimages

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田中の政治生命を奪った事件

74年7月7日に実施された参院選は、田中首相が全力投球で臨んだにもかかわらず、自民党の議席数は伸びず、保革伯仲となった。そしてオイル・ショックによる狂乱物価が国民の不満を高め、選挙前から「金権選挙」「企業ぐるみ選挙」などの強い批判が氾濫した。

さらに、選挙戦の最中から田中首相の「金権選挙」を公然と批判していた三木武夫副総理と福田赳夫蔵相が、同月12日と16日に相次いで辞表を提出した。田中内閣を見捨てたわけである。当然ながらというべきか、マスメディアは田中首相の「金権政治」批判一色となった。

そして、10月9日発売の「文藝春秋」11月号に掲載された立花隆「田中角栄研究」によって、田中の政治資金に関する疑惑の詳細があかるみに出ると、国民の批判を背景として田中辞任の流れが党内で固まり、11月26日に首相辞任を表明せざるを得なくなった。

副総裁の椎名悦三郎の裁定で三木武夫が後継首相になったのだが、それは、福田を指名すれば田中が反発し、大平に決めれば「田中亜流」の謗りを免れないなかで、懸命に配慮した人事であった。三木自身、「青天の霹靂」だと驚いて見せたが、どの派閥からも不満は出なかった。

三木武夫(1907-88)〔photo〕gettyimages

三木首相は、田中の金権政治に対して「クリーン」が売り物で、経済成長に対しては「分配の公正」を標榜し、総裁公選規程改正、政治資金規正法改正、公職選挙法改正などを打ち出したが自民党内の抵抗が強く、反三木の動きが広がって難航した。そんな三木を活気づかせたのがロッキード事件である。

1976年2月4日、米上院外交委員会多国籍企業小委員会で、ロッキード社側から同社の裏金が日本政府高官に渡ったとの情報が公開された。これを受けて、ただちに三木首相は、真相究明まであとへ引かないという決意を明らかにし、フォード米大統領に親書を送り、米側に資料提供を要請した。

ロッキード事件は田中角栄の政治生命を完全に奪ったが、実は私は、ロッキード事件の検察のやり方には重大な問題があるとして、“田中角栄無罪論”を書いている。しかし、ここではその問題には触れない。

三木首相が「田中」を標的にしたロッキード事件の真相究明に躍起になると、党内の「三木おろし」が強まり、結局76年12月5日の総選挙で自民党が敗北したことにより三木首相は辞任した。

そして福田赳夫首相が誕生した。福田は安定成長論者で池田勇人とは肌が合わなかったため、同じ大蔵省出身ではあったが池田派には入らず、憲法改正、小選挙区制などの政治理念は岸信介の後継者と言えた。