週刊現代
陰謀の裁判「大逆事件」をめぐる謎の会合 
森鴎外スパイ説はやはり本当なのか

〔PHOTO〕gettyimages

「永錫會」が大逆事件を引き起こした

明治43(1910)年10月の森鴎外の日記に「永錫會」という謎めいた会合が登場する。ちょうど同年5月に発覚した大逆事件の予審が終局を迎えた頃である。

〈十月二十二日(土)・・・・・・賀古鶴所(=鴎外の親友で山県有朋側近)来て永錫會の事を話す。二十九日予も臨席することとなる〉

〈十月二十九日(土)。雨。平田内相東助、小松原文相英太郎、穂積教授八束、井上通泰(=民俗学者・柳田国男の兄で山県の歌の師匠。政治通だった)、賀古鶴所と椿山荘(=山県邸)に会す。晩餐を饗せらる〉

この永錫会に鴎外が出席したことは重大な意味を持つ。顔ぶれを見ると、山県が大逆事件の善後策を諮問するため招集した会議としか思えないからだ。

このとき進行していた大逆事件の裁判は、日本の近代で最悪の暗黒裁判だった。審理は非公開。報道も禁じられ、弁護側証人は一人も採用されなかった。

翌44年1月、被告26人のうち24人(2人は有期刑)に死刑が宣告された。翌日、天皇の名による特赦が行われ、12人が無期刑に減刑されたが、社会主義・無政府主義の指導者だった幸徳秋水や、彼の愛人の管野スガら12人は処刑された。

事件の真相は戦後になって解明された。爆弾による天皇暗殺計画(実行はされていない)に関与していたのは管野ら数人で、他の被告は無実だった。

管野は獄中手記に「今回の事件は無政府主義者の陰謀といふよりも、寧ろ検事の手によって作られた陰謀という方が適当である」と書き残している。

この事件のフレームアップを陣頭指揮したのが元老・山県有朋である。捜査や裁判の推移は彼に逐一報告された。判決後の特赦で天皇の仁慈を演出する筋書きを描いたのも山県だった。

ここで問題の永錫会の顔ぶれを詳しく見てみよう。鴎外はこの前年、赤十字病院長の人事をめぐって陸軍次官と対立し、辞任寸前に追い詰められた。が、山県の支持を取り付け、次官をねじ伏せた。つまり鴎外と山県の“主従関係”は、もう抜き差しならぬほど深くなっていた。

穂積八束は前回触れたように、米国での明治天皇暗殺予告事件の秘密報告書を山県に届けた東京帝大教授(憲法)である。

中村文雄著『森鴎外と明治国家』(三一書房刊)によれば、穂積はこの年9月、山県が大逆事件を受けて天皇に提出した意見書「社会破壊主義論」の執筆者でもあったらしい。

意見書は、社会主義を根絶するには「国民教育ノ普及」と「穏健ナル思想ノ涵養」が第一と訴えている。次いで貧病者救済の「社会政策」の必要性を説き、まったく改悛の見込みのない者は「之ヲ絶滅シテ遺憾ナキヲ期スヘシ」と述べている。

平田内相と小松原文相の二人は、文芸検閲・思想取り締まりの元締めだ。平田はこの年7月、桂首相に「社会主義に対する愚見」を提出し、やはり教育と社会政策の必要性を説いている。

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