「最強」とはなにか。日本人で初めてムエタイ王者になったキックの鉄人に聞いてみた

【最強さん、いらっしゃい!】
細田 マサシ

女じゃなくて鬼がいた

──最初は大阪ですか。
藤原 70年に大阪万博があったでしょ。その数年前から、万博会場の周辺で、橋を造ったり道路を整備したりっていう現場仕事の需要が結構あったんだ。つまり出稼ぎだな。そうやって飯場生活しながら、学費を稼いだりしてた。

──それで学費を稼いで、東京に出てきた、と。
藤原 そう。二十歳のときに王子の中央工学校、ここは田中角栄が出て一時期は校長先生もやっていたという学校なんだけど、そこの夜学に入学して設計士の勉強を始めるわけ。朝と昼間は牛乳配達のバイト、それで学費と生活費を稼いでたの。

──では、キックボクシングとの出会いはどういういきさつで?
藤原 最初の出会いはやっぱりテレビなんだよ。大阪の飯場生活のときに、たまたま6チャンネル、TBSのキックボクシング中継を見たんだ。そこで見たのが沢村忠さんだよ!

──「真空飛び膝蹴り」の沢村ですね!
藤原 沢村さんを見て「カッコイイ!」と。世の中にこんなカッコイイものがあるのかと。それで毎週見るようになって。でも、自分もやろうとは全然思わなかった。俺にこれをやる勇気はないと思ったんだ。だってそれまで喧嘩すらもやったことがないんだからね。でも、とにかく画面の中の沢村さんは眩しい存在だった。その印象だけが残ったんだよ

──ちなみに、その後沢村さんとお会いしたことはあるんですか?
藤原 何度かあるんだよ。一番最近では数年前にゴルフのコンペで御一緒して。打ち上げの席で「先輩、どうぞ」ってビールを注ぎに行ってさ。「あ、藤原君か」って。沢村さんって今も爽やかなスポーツマンなんだよ。いいよねえ。

──では、キックをやるようになったきっかけはなんですか?
藤原 東京生活が始まるでしょ。学校に通いながら、朝と昼は牛乳配達の毎日だけど、配達経路の中にキックボクシングのジムがあったんだ。それが目白ジム。「あ、キックのジムだ」って思ってさ。当時キックボクシングは大人気だったからさ、多分若い女の子とかいるだろうと思ったんだよ(笑)。

48年岩手県生まれ。69年キックボクシング目白ジムに入門。同年ビュー。71年初代全日本ライト級王者。78年ラジャダムナンスタジアムライト級王座を奪取し、タイ人以外の外国人で初めてタイの国技、ムエタイ王者に輝く。83年現役引退

──女の子(笑)。
藤原「せっかく東京に出て来たんだから、女の子と仲良くしたいなあ」って思うじゃない。それである日の昼間、一度見学してみようと思ったの。ジムのドアを開けて「ごめんください」……そしたら誰もいない。がらんとしていて「おっかしいな、女の子いないなあ」と思って(笑)。

──女しか見えてないんですね(笑)。
藤原 そしたら「何だ!」って言うからふと見たら、「わ、鬼がいる」って(笑)。

──女じゃなくて鬼が(笑)。
藤原 本当に鬼だよ! それがウチの先生だったんだよ。師匠の黒崎健時。

──おお! 極真空手大山倍達の一番弟子にして、ムエタイとの他流試合をへてキックボクシング目白ジム会長。「鬼の黒崎」と畏怖された黒崎健時ですね。
藤原 オランダに「オランダ目白ジム」ってあるでしょう。あれはオランダ人のヤン・プラスが目白ジムに修業に来ていて、それで「暖簾分け」みたいな感じでオランダにジムを作ったんだ。だから先生がオランダにキックボクシングを広めたようなものだから。

──そうなりますね。
藤原 つまりね、先生がいなかったらK―1はないんだよ。だって、ピーター・アーツとか、ブランコ・シカティック、アーネスト・ホーストと、当初のK-1はオランダのキックボクサーばかりだったじゃない。彼らがいなかったら成功していないわけだから。