週刊現代
森鴎外はスパイだった?モラルに欠けた軍医が権力の頂点に立てた理由

鴎外の意外な素直

森鴎外[photo:wikipediaより]

森鴎外=山県有朋の“スパイ”説の真相を追っている。

二人の交流が文献で確認できるのは、日露戦争後の明治39(1906)年6月、歌人としても知られた山県の肝いりで和歌研究会「常磐会」が結成されてからだ。

歌壇の重鎮4人が選者として招かれ、鴎外と、彼の盟友・賀古鶴所が幹事になった。それから鴎外は山県と親しくなり、山県のブレーンにるのだが、その経緯を述べる前に『軍醫森鴎外』(日本図書センター刊)という本にふれておきたい。

これは、鴎外直属の部下だった山田弘倫が、自らの見聞や先輩・同僚らの証言をもとに、軍医としての鴎外の足跡をたどった、貴重な記録である。そのなかに第二軍軍医部長として日露戦争に出征した鴎外の意外な素顔が描かれている。

第二軍は明治37年5月、中国の遼東半島に上陸。1日で4300人の死傷者をだす激戦のすえにロシア軍を撃退した。直後に問題となったのが、前線各地の野戦病院に収容された負傷兵の処置だった。

敵が反撃してくる前に、彼らを後方に運ぶ必要があった。だが、第二軍ではその後送体制が整備されておらず、担架や車両もわずかしかなかった。患者の後送をどうするかは、野戦病院ごとの判断に委ねられた。

そこで一計を案じたのが、七里庄の野戦病院を任されていた軍医・飯島茂である。彼は、軍の輸送船から陸揚げされた食糧を前線まで運んでくる中国人たちの荷馬車に目をつけた。

中国人は揚陸地から2日がかりで食糧を運んで9円の賃金を得るが、帰路は積み荷がないので一銭ももらえない。そのため途中で逃亡する車夫もいた。ならば、賃金を割り増しして帰路は患者を運ばせればいい。

飯島は食糧輸送の責任者に話をつけ、午前中に、中国人の馬車86台で患者300人を後送する準備万端を整えた。

午後になって軍司令部の鴎外を表敬訪問した。鴎外は軍全体で3600人に及ぶ負傷者の後送が一向に捗らないのを嘆いていて、飯島に「君の病院では何人後送できたか」と訊ねた。「今朝は軽症者36名を運びましたが、明日は300名を運ぶ予定です」と飯島は答えた。「エッ、300名も一時にどうして送ることができる?」鴎外は驚いて聞き返した。

「閣下、われわれの食糧はどうやって運ばれてくると思われますか」。飯島はそう前置きして自分のアイデアを説明した。

「空の荷馬車を使えば、病院は患者を後送でき、車夫は往復ともに賃金を得ます。車夫が逃亡する心配もなくなります。一挙三得ではありませんか」

飯島が話し終えると、鴎外は飯島に一時退席を求め、あわただしく隣室の部員を呼んで何事かを命じた。部員は直ちに外へ出ていった。飯島は、その後しばらく鴎外と雑談して野戦病院に戻った。軍の命令を伝える文書が飯島に届いたのは、その日の夜8時すぎだった。

「自今(=今後)病院各個ニ傷者ヲ後送スルコトヲ厳禁ス
第二軍々司令官 奥保鞏」

鴎外の差し金なのは明らかだった。飯島は司令部に行き、鴎外に「この命令の効力発生の時期を(後送馬車が出発し終える)明日午前9時以降にしてください」と言った。

しかし、鴎外は飯島の懇請をはねつけ、こう言った。

「微々たる病院がたやすく300~400人の傷者を後送できるのに反し、堂々たる軍の力をもって隔日わずか100人内外の後送しかできないとなると、軍医部の面目はどうなる。軍医部長の立場を考慮せよ」

つまり、自分の面子をつぶすようなことをするなと言うのである。飯島は反論した。

「空き馬車の利用は私が考え出したことです。病院独自の傷者後送禁止は、私が今日ここに来た時に決意されたことでしょう。ならば、なぜその場で、そう言われなかったのですか。夕方になって突然、軍司令官の名で厳禁命令を出されるなんてひどすぎるのではありませんか」

二人の議論はえんえんと続き、最後に鴎外はこう言った。

「君、昔から、大の虫を助けるために小の虫は殺されるにきまってるよ」

それを聞いた飯島が「わかりました」と言って部屋を出たのは夜の12時すぎだった。

その後、鴎外が空き馬車による後送を第二軍全体で実施したかどうか、飯島の回顧談ではわからない。ただ、鴎外が負傷兵の救護を最優先する軍医でなかったことだけは確かだろう。

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