週刊現代
「軍国主義」の原型はこうして作られた
~山県有朋という“絶対的権力者”誕生の瞬間

日清戦争〔PHOTO〕gettyimages

正月から物騒なニュースが相次いでいる。北朝鮮が「水爆」実験に踏み切り、中東ではイランとサウジアラビアが国交を断絶した。南シナ海では、中国が人工島に作った滑走路を使っての試験飛行を強行した。

この先、何が起きるかわからない。だから改憲で強い日本を取り戻さなければならぬ―というふうに世論は動きつつあるようだが、ちょっと待ってほしい。

それだと、いつか来た道を歩むことになりはしないだろうか。明治から昭和にかけての軍国日本の過ちを繰り返さぬことが私たちの課題ではなかったのか。

明治10(1877)年代の東アジア情勢は今よりもっときな臭かった。不凍港を求めて南下するロシアの脅威が迫り、朝鮮半島情勢も緊迫していた。

そればかりか明治17年、英独両国が東部ニューギニアを領有した。翌18年、ドイツはマーシャル諸島に進出、フランスは台湾海峡の澎湖島を占拠し、英国はビルマに侵攻した。東アジアは、西欧列強の植民地主義の攻勢にさらされていた。

では、そんな情勢に日本はどう対応したか。大江志乃夫さんの名著『日本の参謀本部』(中公新書)に拠りながら、陸軍の動きを追ってみよう。

大江さんによると、明治10年の西南戦争を最後に陸軍は内乱にそなえる軍隊としての任務を終えた。以後は、外敵との戦闘を主任務とする軍隊=国土防衛軍へと性格を転換させた。この国土防衛軍が想定していたのはあくまでも国内戦だ。

ところが明治15年の壬午軍乱(朝鮮兵士らの反日反乱)による清国との軍事的対立をきっかけに〈清国との軍事抗争の戦場〉が朝鮮に設定され、〈日本の軍事政策は、急拠外征軍備の拡張整備に転換した〉。

そのため、ドイツの参謀将校メッケルが軍事顧問として招聘され、ドイツをモデルにした外征軍隊の建設が進められた。陸軍部内を二分する大論争が起きたのは、その最中だった。

ドイツモデルの外征軍隊への転換を進めたのは、前回登場した陸軍の大御所・山県有朋が率いる陸軍主流派である。

これに反発したのが、西南戦争の活躍で知られる農商務大臣の谷干城(陸軍中将・土佐藩出身)ら反主流派の将軍たちだ。

彼らは〈島国日本の防衛を目的とする軍隊が侵攻作戦を目的とするヨーロッパ大陸の陸軍の模倣をすることの愚〉を説き、〈「攻撃は最良の防御」という箴言は戦術次元の問題としては成立しても一国の軍備には適用できない〉と専守防衛を訴えた。

あの時代にこんな卓見を持った軍人たちがかなりいたのである。だが、彼らは山県の手で陸軍から追放されてしまった。彼らの牙城と目されていた兵学研究会・月曜会も明治22年に解散させられた。

絶対的権力者が誕生した瞬間

しかし、そこで彼らは抵抗をやめたわけではない。反主流派の将軍の多くは貴族院議員として政界入りした。参謀本部次長だった小沢武雄(陸軍中将)もまた反主流派として陸軍を追われ、貴族院議員となった。

明治24年の貴族院で、反主流派のリーダー谷干城は議員74人の賛成を得て、軍事費を大幅に削減し、残りを減税に回す建議案を提出した。〈陸軍を追われた専守防衛派の将軍たちが、山県らの外征軍隊建設派にたいし、国民の耳にとどく政治の場で公然と批判を開始したのである〉と大江さんは言う。

なかでも山県の神経を刺激したのは、つい最近まで参謀本部次長だった小沢武雄の演説だったらしい。小沢は軍の内情を熟知していただけに具体的資料を挙げて谷の建議案を裏付けた。

さらに小沢は内閣のチェックの効かない参謀本部の廃止や、憲兵の廃止なども訴えた。これは、清国との戦争準備にまい進する軍にシビリアン・コントロールの軛をかけ、外征を不可能にすることを意味していた。

谷が提出した建議案の採決の日。貴族院の傍聴席は腰の剣をガチャつかせた軍服姿の軍人で埋まった。議員らは威圧され、谷の建議案は97対78で否決された。さらに小沢は軍機に属することを公表したかどで陸軍中将の地位を剥奪された。

こうして外征軍隊への転換に反対する政界の動きは封殺された。反主流派が一掃されたことで〈陸軍は、山県有朋という人物が結成した単一の派閥が支配する陸軍となった。山県に反対の意見の持主は、陸軍の軍人として生活することができなくなった〉と大江さんは言う。

つまり、明治国家最大の権力者・山県の権力基盤は、月曜会をめぐる一連の事件で確立されたのである。山県は内相や首相などを歴任しながら、陸軍だけでなく内務省や司法省などにも自らの派閥を築き上げていく。

山県の権力が絶頂を極めたのは明治の末期だ。それを物語る有名なエピソードがある。

明治45年7月10日、東大に行幸した天皇は階段を上がるごとに足をそろえねばならぬほど衰弱していた。5日後、天皇は枢密院会議に出た。その時、天皇の体力は極度に衰えていたらしく会議中にうとうとした。

議長席の山県はそれを目ざとく見つけると、軍刀の先で床を強く何度も叩いた。その音で天皇を起こし、姿勢を正させたのである。これではどちらが国家元首だかわからない。

さて、以上のような山県の絶対権力者ぶりを踏まえ、前回触れた大江さんの言葉に立ち返ろう。大江さんは『日本の参謀本部』のなかで森鴎外=山県の情報将校説を示唆していた。

鴎外が東大医学部から陸軍入りしたのは明治14年。ドイツをモデルにした陸軍の外征軍隊化が始まる直前だった。3年後に彼は衛生学を修めるためドイツ留学を命じられ、帰国したのは明治21年9月。そのころには山県による陸軍の一元支配がほぼ確立されていた。

軍医として鴎外が栄達を遂げることができるかどうか。そのカギは山県の掌中にあった。二人はやがて接近し、互いに利用し、利用される関係になっていくのだが、その経緯については次号で触れたい。

*参考:『山県有朋』(半藤一利著・PHP文庫)

『週刊現代』2016年1月30日号より

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら