現代新書
「陣形の研究」兵法の変遷をたどってわかった、驚きの中世軍事史
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「信長の野望」はリアルなのか

わたしは前近代の合戦が好きだ。

特に陣形と陣形がぶつかり合う会戦(大規模な遭遇戦)には強い魅力を感じている。

だから戦国モノの歴史映画や大河ドラマ、歴史ゲームの会戦映像にはいつも釘付けになる。海外の歴史物やファンタジー作品も例外ではなく、『レッドクリフ』や『ロード・オブ・ザ・リング』の戦争シーンから目が離せない。だが妻がいうには、その顔はいつも暗いらしい。国内外の会戦映像を見ていると、いつも必ず雑念がわいてくる。特に気になるのは陣形と兵種の動きで、なぜもっと説得力ある映像にできないのかと残念な気持ちにさせられるのである。

たとえば黒澤明の『影武者』。クライマックスの長篠合戦は世界的に評価が高く、その映像は悲壮感いっぱいで美しい。しかし今見直してみると、いささか人工的すぎないだろうか。西部劇の騎兵隊よろしく一斉突撃するサラブレッドの勇姿は優美なものの、戦国時代の騎馬は去勢されていなかったので、あのように落ち着き払った突進はしなかっただろう。どちらかといえば野生の猛牛に跨ったバーバリアンのように、もっと乱雑で荒々しい動きを見せていたのではないだろうか。

同作品では歩兵の行進シーンにも違和感を覚える。かれらは敵の鉄炮隊めがけて前進するが、ほとんど自殺的に銃撃の的と化し、バタバタ斃されていく。さすがに世界のクロサワだけあって、感動的で説得力ある映像に仕上げられてはいる。だが、そこにある説得力とは物語としての説得力であり、現実的な説得力では首を傾げさせられるのである。

前近代の戦闘は、飛び道具には飛び道具で応戦し、それで優劣が定まるかあるいは進退窮まって切り込むのがセオリーだった。それを無視する形で映画のような行進の命令がくだされれば、一般兵は不審に思い、指揮官の顔を見直したに違いない。しかしかれらはなんの躊躇もなく進み出て、当たり前のように雨あられと銃弾を浴び、悲鳴とともに身を捩らせながら、悲惨に全滅させられるのである。

近年では大河ドラマ『葵 徳川三代』の関ヶ原合戦シーンも評価が高い。だが、こちらも釈然としない。緒戦で演じられる宇喜多秀家隊と福島正則隊の激突シーンで、旗指物を着装した足軽(戦国時代の旗指物は侍が着装する物だったはず)が、横一列に鑓を並べて突進し、決死の殺し合いを展開する。役者の熱演も相まって凄まじい迫力である。しかし、どうにも入り込めない。ただの足軽が揃いも揃って手抜きなしに相手と争えるか疑問に思ってしまうのである。無名の者が無名の者を討ち取る意味など何もないだろう。

その他の映像作品でも、前線に進み出た騎馬武者(特に大将格)が、敵の足軽たちを馬上から攻撃する情景をよく見るが、騎馬武者が足軽との戦闘に熱中する理由がわからない。騎馬武者は名のある相手を探して討ち取るのが仕事で、そのために重武装で騎乗しているはずである。無名の足軽にかまけている場合ではない。足軽の中にそれなりの使い手がいて返り討ちにされる危険もあっただろう。敵の一般兵は味方の一般兵に足止めさせていればいいのである。足軽・雑兵はこうした役割を担うためにいるのではないのか。

そしてそうした動きを有機的に運用するのが陣形ではなかったか。

わたしはゲームにあらわれる陣形のシステムにも入り込めない。『信長の野望』などのシミュレーションゲームで遊んでいると、「魚鱗陣は鶴翼陣に強く、鶴翼陣は横隊陣に強い。横隊陣は方陣に強く、方陣は雁行陣に強い。雁行陣は逆行陣に強く、逆行陣は魚鱗陣に強い」といった相性ルールをよく見かける。

しかしそのような通りのいい法則が現実にあったとは考えにくい。文献や伝承にある陣形を都合よく解釈して、ゲームバランスにテコ入れするのはいいが、説得力を与えるはずのシステムがかえって説得力を奪っているようで、なかなか好きになれない。

会戦を扱った作品に浸ろうとすると、右のような疑問がとめどなく溢れ、落ち着いて鑑賞していられなくなってしまう。触れれば触れるほど納得できない引っかかりにぶつかり、海水を飲むような渇きを覚えさせられるのである。