学校・教育
人工知能が台頭する時代に、子供たちに何を「教育」すべきか
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多様な価値観で考える「21世紀の教育」

イギリス系、アメリカ系、インターナショナルバカロレア系、インド系、中華系、シンガポールローカル系……シンガポールには、多様なシステムでカリキュラムを組む教育機関があり、ロボット工学からカンフーまで多種多様な塾にあふれている。

私はここで、多彩な教育観を持つ、多国籍多人種多宗教の親たちと「21世紀の教育」を常に議論している。

それだけでなく、世界初の汎用人工知能を開発する斉藤元章さんや、シリコンバレーで多くのユニコーン企業を興しているピーター・ティール氏らとともに「21世紀のテクノロジーがいかにわれわれの生活を変えていくか」を常々議論している。そのため私は、ほかの方々からみれば多少ユニークな教育観を持っているのかもしれない。

結論からいえば、「自分と向き合わせ、己を知らしめ、多様な仲間と経験を通じて、自分の居場所を見つけさせる」ことこそが教育の大きな役割だと思う。今までの教育現場が向上させようと務めてきた「能力」というものが、あまり意味を持たなくなる時代が早晩やって来るからだ。

身体能力の競い合いに意味はあるのか?

「近視矯正手術の意味は私にはわからない。そのリスクというより、裸眼視力に何の意味があるのかがわからない。コンタクトレンズの性能は向上し、価格は下がり、眼鏡だっておしゃれになった。そもそも原野での狩猟ではなく、スマホやタブレットを視るのが人類の日常となり、遠くのものを視る能力の意義が薄れている。次のインターフェイスはコンタクトレンズ型になるかもしれないじゃないか」

これは最近、眼科医の友人から聞いた見識だが、非常に腑に落ちた。これからはこういうモノの見方が大事なのだな、と。

軍事や介護目的で、人間の身体能力を底上げするパワースーツはほぼ実現レベルまで来ている。オリンピックのメダリストよりも速く、力強く、正確に動ける子供や老人さえ珍しくなくなりそうな勢いだ。そういう時代がすぐそこに迫っている。身体能力を向上させるギアが普及していくなか、「生身の身体能力」にこだわることに何の意味があるのだろうか。