「戦争、貧困がなければ、僕は物書きにはならなかった」
〜作家・開高健「幻の講演」全文掲載(前編)

「成人の日」特別企画
開高健氏、1978年11月母校・天王寺高校での講演風景(写真提供:天王寺高校同窓会事務局)

1978年11月27日、大阪天王寺高校。大の講演嫌いの開高健が、二十数年ぶりに引き受けた講演で、母校の生徒たちへ伝えたかったこととは……。笑いと涙に満ちた1時間半の講演を完全再現!

監修:開高健記念会
出典:『マグナカルタ』第5号(ヴィレッジブックス刊)

36年ぶりの母校

この12月、今年(1978年)の12月30日がくると48歳になるんですが……、見る影もなくおっさんと成り果ててしまって……。昔はこんなつもりじゃなかったんですけれども……。フランスの詩人の台詞で言いますと「我らの腕の下を月日は流れる」と。または「橋の下をたくさんの水が流れた」というふうなことになるんです。

この学校に入ったときから数えると、36年ぶりでここへ来るんで……。

実は10年ほど前に、突如酒を飲んでるうちに思い立って、私が子供のときから一歩でも足を踏んだことのあるところ、和歌山、大阪、神戸、京都、奈良、それをとにかく思い出せる限り歩いてみようと思って、1週間ほどかかって歩いたことがあるんですが、ことごとく変わり果ててしまって、こういう滅茶苦茶な変わり方というのを昔の中国人は「桑の海が変じて海になる」、「桑畑が変じて海になる」、「滄桑(そうそう)の変」という言い方をしていたんです。海が変じて桑畑になったって構わないんです。

私が働いていて毎日、空襲やら、アメリカの戦闘機に機銃掃射に曝されていた竜華(りゅうげ)の操車場、八尾のちょっと--河内(かわち)の入り口、品のいいとこ、この操車場の線路の配置とこの中学校だけはなにも変わっていなくて、昼の3時頃来て、ちょっと涙ぐましい思いでうろうろと校庭を歩いて体育館を覘いたりして、それから家へ帰ってまた大酒飲んだんですけども。

こういう見事な体育館は建ってなかったんです。校舎も緑色に塗られていて壁がガサこいところも、机の傷跡も見覚えがあるような気がして、おそらく私が坐って勉強していた机は、もう変わってしまっていたんでしょうけれども、また同じような気質を持ったのがその後新しい机に坐って同じように机を傷めたと見えて、似たような落書きやらナイフの傷があって、また涙を誘われたんです。

それからまた10年経って今ここへ来てみたんですけれども、こういう立派な体育館が建ったのは諸君のためには誠に結構だと思います。ただ、我々のようなオールドファンにしてみると昔のガサこいところがそのまま残っていてほしいという気持ちもありまして……。ただ校舎の骨組みそのものが変わっていないので、それで昔を偲びたい。

なにか近頃、怪しげな歌が数年前に流行って、『河内のオッサンの唄』とかいうらしいんですけども、「ヨォ来たの、われ」って。今日ここへ校舎へ入ったとたんに、その声がどっかからか聞こえてきたような気がしたんで(笑)。「ヨォ来たの、われ」っていう……。

私がいた頃の天王寺中学というのはバンカラなところで、きれいに言えば「質実剛健を旨とし」ということなんですけれども。特にこのラグビー部とか柔道部とかいうのはもう手に負えないのがいっぱいおりまして(笑)。

ラグビーは北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)と毎年定期的に、秋だったか、春だったか、試合をするんですが、試合なんかはどうでもいいんで、向こうはキタを根城にしていて、こっちは、阿倍野というガサこいとこから出張っていくんで。どっか間で待っとって、必ず町で会ったら、北野中学と見ると殴り掛かる。理由なしに連れ込んで、バッヂを取る、バックルを取る、ゲートルを脱がす。向こうもやる、こっちもやる。

そういうことばっかりやっていたんですけれども、さきほど校長先生に訊くと、「そういう気風はなくなりました。みんなエライおとなしいです」と。

おとなしいばっかりじゃ困るんで、ちょっと暴れてほしいんで、手応えがないんで困るんですけれども。手応えの分はどこにいったんですかと言ったんですが。女の子はどうですかと訊くと、「これはなかなか、がんばっとる」と(笑)。

どちらかというと女の方ががんばっているんとちがいますか? と言いますと、「結果としてみたら、そう言えないことはありません」と。男性代表として、校長先生は、複雑な、口籠った言い方をしておられましたけれども。男性諸君はがんばっていただきたい。