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2016年01月10日(日) 東山彰良

1964年、東京オリンピックの開会式当日に、事件は起きた
~話題の直木賞受賞作『流』の後日譚を特別公開

書き下ろし小説「I Love You Debby」(後編)

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又吉直樹さんの『火花』の芥川賞と同じタイミングで、東山彰良さんは『流』で第153回直木賞を受賞しました。選考委員9氏全員が◎をつけるという、前代未聞の完全受賞です。いま最新作が最も待たれている作家の、どこにも発表されていない書き下ろし小説「I Love You Debby」を特別に公開!『流』の登場人物たちの後日譚が描かれています。娘とうまくいかない男が久しぶりに帰国した台湾で、父親にまつわる秘密に触れることに――。

<「I Love You Debby」前編はこちら>

* * *

【PHOTO】iStock

暁叔父さんの八十大寿を翌日に控えた10月30日、葉秋生と趙戦雄に車椅子を押させた胖子が麻雀をしにやってきた。年寄りの祝事に付き合って一局打つのは、どんなときでも礼儀にかなったことなのである。

葉秋生とのいちばんの思い出は、碟仙(こっくりさん)をいっしょにやったことだ。趙戦雄もたしかその場にいたと思う。材木置き場につどった小学生のわたしたちは手をつなぎ、息をつめて霊応盤(れいおうばん)の上の小皿を見つめていた。あのとき碟仙が来てくれたかどうかは覚えてないけれど、葉秋生が尻に大怪我をしたのはよく憶えている。姉とその仲間たちが馬鹿でかい声で私たちを脅かしたせいで、びっくり仰天した葉秋生は廃材から飛び出ていた釘の上に尻餅をついてしまったのだった。

そのときの話でひとしきり盛り上がってから、わたしは麻雀卓を整え、全員ぶんの茶を淹(い)れた。

牌が混ぜられ、積み上げられ、賽子(サイコロ)がふられた。そしてわたしたち一家がアメリカへ移民したあとの彼らの人生が、乱れ飛ぶ「碰(ポン)」や「吃(チー)」や「自摸(ツモ)」、そして高笑いや恨み節の合間に語られた。

いまは台湾大学で日本語を教えている葉秋生がそのむかし、胖子の姪の毛毛(マオマオ)と付き合っていたというのは初耳だった。

「ほんの短いあいだだったがな」牌を引きながら、葉秋生が言った。「おれが兵役に行ってるあいだに、おたがいなにかが変わってしまったんだろうな」

「ぼくも経験があるよ」わたしは応じた。「ぼくのむかしの彼女も、ぼくが兵役に行ってるあいだにほかの男のものになったから」

「よくある話さ」と嘯(うそぶ)く趙戦雄は極道あがりで、むかし人を殺して刑務所に入っていた。「女ってのは甘い砂糖とおなじさ。ちょっとでも油断すりゃすぐほかの蟻にたかられちまうんだ」

「なあ、老唐」と、捨て牌をポンしながら胖子。「むかしはよくあんたに女を世話したなあ。おたがいもうこの歳だ。いまだから訊くが、あんた、哲明のお袋さんとはほんとうになにもなかったのかい?」

わたしは暁叔父さんを見た。

叔父さんはにこにこ笑うばかりで、なにも言わなかった。

わたしたちはそのまま麻雀をつづけた。昼の1時から打ちはじめ、気がつけば7時近くになっていた。

「おい、哲明」おもむろに胖子が言った。「そろそろはじまるんじゃないか?」

「ああ、そろそろですね」

「なんだ?」と、葉秋生。「なにがはじまるんだ?」

「日本のプロ野球だよ」わたしは冷めた茶をすすりながら答えた。「今日、ホークスが日本一になるかもしれないんだ」

「さてと」暁叔父さんが大きなのびをすると、妹妹がやってきて脚にまとわりついた。「麻雀はこれくらいにして、わしは植物園に散歩でも行くかな」

それでわたしは叔父がいまでも野球が好きではないのだと、約30年ぶりに思い出すこととなった。

わたしは暁叔父さんを引き留めようとしたが、趙戦雄が鼻をひくひくさせて顔をしかめたのは、まさにこのときだった。

「なんだ、このにおい?」

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