満場一致で直木賞を受賞した『流』の後日譚を特別公開!
父になった「彼」のその後・・・

書き下ろし小説「I Love You Debby」前編

又吉直樹さんの『火花』の芥川賞と同じタイミングで、東山彰良さんは『流』で第153回直木賞を受賞しました。選考委員9氏全員が◎をつけるという、前代未聞の完全受賞です。いま最新作が最も待たれている作家の、どこにも発表されていない書き下ろし小説「I Love You Debby」を特別に公開!『流』の登場人物たちの後日譚が描かれています。娘とうまくいかない男が久しぶりに帰国した台湾で、父親にまつわる秘密に触れることに――。

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「I Love You Debby」東山彰良

【PHOTO】gettyimages

東京オリンピックについてわたしが知っていることは、あまりない。

すくなくとも、あの日まではそうだった。

記憶に留めておくには幼すぎたし、いまふりかえってみると、この年にはもっと重要なことが起こっている。

1964年8月、すなわちオリンピック開催の2ヵ月前、北ベトナム海軍の魚雷艇がアメリカの駆逐艦マドックスを攻撃した。いまだにアメリカの自作自演疑惑の残る、そう、東京(トンキン)湾事件である。

この事件を口実にして、リンドン・ジョンソン大統領が本格的にベトナム戦争に介入をはじめると、目端の利く商売人たちはいっせいに色めき立った。

我が家とて例外ではない。

傾きかけた町工場をわたしの父と兄弟で営んでいた暁(シャオ)叔父さんは、朝から晩までベトナム人を殺すための金属部品をつくりつづけた。

まだ幼かったわたしは工場の片隅で駄菓子などを貪(むさぼ)りながら、旋盤をまわす彼の背中をよく眺めていたものだった。耳障りな回転音は夜になっても消えることはなく、いつまでも耳のなかでぶんぶん鳴っていた。叔父の汗だくの背中をぼんやり見ていると、それがだんだん父の背中に見えてくる。わたしには父の記憶があまりなかった。

暁叔父さんは一生懸命働いた。いつまでもあると思うな親と金と戦争特需、というところだろう。

「暁叔父さんがつくっていたのは、たぶん爆弾を飛行機に留めるための部品かなんかだったんじゃないかしら」と、母がいつか話してくれたことがある。「さもなきゃ、便器の排水レバーかもしれないわね」

東京でオリンピックの準備が着々と進められていたその裏側で、アメリカは着々とベトナム戦争の準備を進めていた。叔父がなにをつくっていたにせよ、軍需物資を調達するアメリカのドルが便器の排水レバーを押したようにどっと台湾へ流れこみ、そのおかげでわたしたちの国は未曾有の高度経済成長期へと突入したのだった。