文学BAR
2016年01月11日(月) 北 康利

開高健"先輩"からの贈り物
〜北康利。これが作家人生の「原点」になった

『佐治敬三と開高健 最強のふたり』執筆秘話

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開高健(右)と谷沢永一。同人誌「えんぴつ」時代のころ(写真提供:開高健記念会)

 

文/北 康利(作家)

作家・開高健との出会い

2015年12月9日、作家野坂昭如がこの世を去った。

野坂と同い年だったのが、同じく戦後無頼派とよばれていた開高健である。

「焦土に突き出た水道管から飛び散った水が虹を作ったって、野坂のやつ、またおんなじようなこと書いとる」

というのが、仲の良かった開高が野坂をいじる時の常套句であった。

そんな野坂は、よりによって開高と同じ命日を選んであの世へと赴いた。開高がもし生きていたら、昨年(2015年)の12月30日で野坂と同じ85歳になっていたはずなのだが、彼はその27年前の1989年(平成元年)に58歳という若さで、気の短い彼らしくせかせかとこの世を辞していったのだ。

後掲するのは、その開高健が47歳という脂ののった時期に、彼の母校天王寺高校で行なった講演である(→こちら)。それをどうして私がご紹介するかと言えば、彼の後輩として、その場に私が居合わせたからに他ならない(ここからは、開高健のことを〝先生〟という敬称で呼ぶことをお許しいただきたい)。

1978年(昭和53年)11月27日、講演は雨上がりの午後に行なわれた。会場は前年に建ったばかりの新体育館。大きな拍手の中、先生は中央の通路を私の左後方から入場してこられ、左斜め45度、距離にして10メートルほど前の壇上に立たれた。

そもそも先生が講演のお嫌いな方だったことは〝二十数年ぶりに出てくる羽目になった〟というくだりでも明らかだ。「作家は講演がうまくなると筆が鈍る」という、私が日ごろ自戒している名言も残しておられる。

ところが先生は話が実にお上手だった。最初のうちこそ硬い口調だったが、「河内のオッサンの唄」の「ようきたの、われ」と母校が迎えてくれた気がしたというところで爆笑を取った後は、みちがえるように口がなめらかになっていく。

そもそも天王寺高校というのは、大阪のミナミという繁華街よりさらに南、〝ディープサウス〟などという許しがたい呼び方をされる地域にある。こてこての大阪人の集まりであり、ラテン並みにノリがいい。開高先生の講演でも、この講演録にある控え目な(笑)では伝わらないほどの爆笑に何度も包まれ、開高先生と生徒は心を通わせて一つになった。

調子が出てくると不適切用語もばんばん飛び出してくる。壽屋(現在のサントリー)伝説のコピー〝「人間」らしくやりたいナ〟の生みの親らしい、人間臭い講演であった。

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