日本一の書評
2015年12月27日(日)

映画こそがテロと正面から向き合った
〜年末年始に読みたい四方田犬彦の3冊

リレー読書日記・中島丈博

upperline

ルイス・ブニュエルの映画『忘れられた人々』を観た衝撃を何と表現すればいいのだろう。

まるで激烈極まりない鴆毒の仕込まれた酒を呑んで悪酔いしたような気分に陥った、とでも言うべきか。当時、あるベテラン脚本家がシナリオを体得する方法として、これと思う映画の採録をせよと教えていたが、私は無謀にもこれと思う採録すべき映画の最初の一本にこのフィルムを選んでしまった。

恐らくは、通常の映画が持つモラリッシュな文脈から著しく逸脱したその攻撃性や残酷なまでのリアリズムを、自分の中でどのように整理していいのか分からぬまま、模索的に採録したのだったと思う。

郷里のちっぽけな洋画専門館で、2本立ての外の1本が邪魔だったけれども繰り返し観て、客席の最前列のスクリーンの照り返しの中でノートにメモを取り、そのメモと記憶を頼りに『忘れられた人々』の採録シナリオを完成させた。

冒頭、いかにも真面目で型通りのナレーションから始まるのだが、そのつもりで観ていたらとんでもないことになる。一転して観客は「無限の残酷さに満ちた時空へ突き落とされる」のだ。これを犬彦さんは「ブニュエルの意図的な擬態」と呼んでいる。

例えば、主人公ペドロの不良仲間で感化院を脱走してきたハイボが自分を密告したとされるフリアンを殺すときのシーンだが、何度も何度も力任せに棍棒で殴り付ける過剰なまでの暴力性は頭蓋骨が潰れて脳味噌が飛び出しているのではないかと思わせるほどの酸鼻さなのに、台詞はまるで乖離している。

ペドロ「大丈夫だろうか、フリアンは?」
ハイボ「気を失っているうちに早く逃げよう」
ペドロ「そうだ。早くしないと今に起き上がって追いかけてくるぜ」

実はこうした細部の台詞にも「ブニュエルの意図的な擬態」が仕掛けられてあったのかと、本書『ルイス・ブニュエル』を読んで改めて納得した。

四方田犬彦著 作品社/4800円

何よりも私が魅入られたのは頻出する鶏の表象だった。少年の頃から鶏を飼育することに熱中して卵を孵化させ、東京に家を構えてからもチャボや東天紅を20羽ほども飼い慣らしていた私の中には、この騒々しいだけで愛嬌も糞もない生命体への偏愛と拘泥があるらしい。全編に鶏さまが跳梁跋扈するこのフィルムの放つ魔力に絡め取られないというわけにはゆかなかった。

アンダルシアの犬』から最晩年の『欲望のあいまいな対象』まで、この大部な評論集にはブニュエルの主たる作品が犬彦さん特有の明晰で喚起力をそそる語彙を駆使して自在に解体され、そして系統立てられている。ブニュエルファンならずとも、その知的快感を存分に味得できるというものだ。

次ページ 既視感はテロによって砕かれた
1 2 次へ

このエントリーをはてなブックマークに追加 RSS
関連記事


underline
アクセスランキング
1時間
24時間
トレンドウォッチ