脚本家・山田太一さんの「わが人生最高の10冊」
「人間」という手に負えない存在

読書の面白さを教えてくれたのは中学校の先生方

脚本家の山田太一さん

私が生まれたのは1934年。実家は東京・浅草で食堂を営んでいました。周囲はすべて商店で、家にあった本といえば落語全集や講談本。それと、母か姉の『キング』などの雑誌があったことをおぼえています。

'44年になると、戦況が悪化したため、家族そろって神奈川県湯河原町へ移りました。周囲に住んでいたのは芸者さんや旅館の番頭さん、太鼓持ちの人たち。本格的な読書とは、なかなか縁がありませんでした。

読書の面白さを教えてくれたのは中学校の国語の先生方でした。1年生のときの先生は韻文が好きな方で、芭蕉、蕪村や島崎藤村の『若菜集』などを書き写させました。

2年生のときは別の先生が、小説の世界に目を開かせてくれました。『世界文学全集』の『レ・ミゼラブル』や『椿姫』『罪と罰』・・・。すべて先生の蔵書でした。私たちは新制中学の1期生でしたが、急ごしらえの学校には図書室もなかったのです。

小田原高校を卒業後、本好きが高じて早稲田大学教育学部の国語国文学科へ。そのとき、同じ学科にいたのが寺山修司さんです。とても気が合って、親しくなりました。彼がネフローゼで入院したときは、連日、見舞いに行って、彼のお母さんに叱られました。

彼の作品を読ませてもらったこともあります。俳句も良かったのですが、一番優れていたのは短歌ではないでしょうか。一方、私は彼の韻文と戦う力はなく、散文で立ち向う気持ちになっていました。

'58年の卒業時には松竹の助監督試験を受験しました。映画志向だったのではなく就職課の勧めでした。当時はきびしい就職難で、「とりあえず、松竹も受けておきなさい」と勧められたのです。ところが合格しました。後に分かったのですが、課題の短篇が面白かったからだそうです。

それでいくらかシナリオの領域に近づいてはいたのですが、師事していた木下惠介監督がテレビ界に移って私もついて行き、木下さん企画のドラマの脚本を書くことになったのです。これが人生というものなんだなぁと思っています。