「あれから三十年」伊集院静が明かす、亡き前妻・夏目雅子との最後の日々

悲しみには必ず終りがやって来る

 私の前の妻、夏目雅子は若くして病死した。その通夜の席で、彼女の祖父に斎場の隅に呼ばれ、言われた。

「君は若い。良い女性がいたらさっさと次の家庭を持ちなさい。いつまでも追いかけていたら、周りも不幸になる。それが大人の生き方だから」

 私は何を言い出したのだ、と驚いたが、今はわかる。去っていく人を去って行った時間を、追ってはいけない。

累計120万部を突破した大ベストセラーシリーズ『大人の流儀』の第5弾『追いかけるな』が 発売された。本書には、追いかけるがゆえに悩むすべての人に向けたメッセージが詰まっている。発売を記念して、同書の中から、若くして病死した前の妻との 思い出に触れた章を特別公開。

      私も長く憎しみを抱いたことがあった

 どう生きたらいいのか、という問いに答えるとしたら、答えはない、と言うしかない。どんな仕事も、どんな芸術も、学問も、行き着くところは、人間はいかに生きるか、という命題に辿り着いているらしい。

 ところが私たちが生きている日々に、いちいちいかに生きるか、と問い続けている人はまずいない。

 私たちは日々、日常のさまざまなことに懸命にむかうのだが(そうでない人が多いし、それが人間らしくもある)、今日はいい一日だったと実感が持てる一日はそうそうあるものではない。そのことは逆に言うと、私たちの日々は上手く行かない方が多いのである。これは百人が共通するところなのだ、とこの頃、わかるようになって来た。

 なぜ、そうなのか。それは私たちにより良い状況を想像する、望みや願いがあり、それにかなう一日がなかなか得られないからである。ではそういう人は、情ない人たちなのか? そうではない。少し(かなりでもいいが)足りなかったことが人間はおぼろにわかる生きものなのである。

 少年よ大志を抱け(少女でもいいが)、と北海道までやって来た外国人教師は言った。少年まではいかずとも、私たちはより良いものへの、望み、願いをこころの片隅に持って、それを離さない生きものなのだ。これを業欲と、私は考えない。望み、願い……、つまり夢がなければ私たちの日々は無味乾燥した日々になる。

 今回、〝追いかけるな〟というテーマにしたのは、望み、願いと言った類いのものを、必要以上にこだわったり、必要以上に追いかけたりすると、それが逆に、当人の不測、不幸を招くことが、私の短い人生経験の中でも間々あり得ることを見て来たからである。

 過ぎたことは忘れてしまえと言っても、忘れられないのが人間の頭脳であり、性癖である。たとえばひとつの恋愛を引きずってしまい、せっかく目の前に、自分をしあわせにしてくれる人があらわれているのに、それが見えない時がある。それは見えないのではなく、追いかける余り、他に目をむけられる余裕、やわらかなこころを持てないことが原因である。

 私も長く憎しみを抱いたことがあり、それが結果的に、文章、小説を書く上で、必要のない翳りになった。他人がゆたかになったり、元気になったりして欲しいという出発点と、自分だけが救われたいという出発では、最後の最後、ひとつのことを成し遂げる時、たとえトップで通過しなくとも、先が見える生き方と、見えない生き方の差となってしまう。

〝追いかける〟ことは決して悪いことではないし、追いかけることでしか成就しなかったことは、研究者、発見を目指す仕事などで多々あるし、あきらめなかったから出来た、という例はある。

 かつて、私も近しい人を多く亡くしたが、もし私が、その哀しみの中に浸っていたら、私は今こうして文章を書くこともなかったろうと思う。生きることに哀しみがともなわない人生はどこにもない。哀しみに遭遇すると、人は、どうして自分だけが、あの人だけがと考えざるを得ない、しかし哀しみの時間に一人立っていても、そこから抜け出す先は見えない。決して忘れ得ぬことでも、それを追いかける行為は、人を切なくするばかりだ。

 私が言う〝追いかけるな〟は、前進のためにあると思っていただきたい。

 斯く言う私は、いくつものことを追いかけている。それでいいと思っているのだが、追いかけるにしても、その姿勢が大切なのだろう。

 世の中には、さまざまな人、さまざまな場所が、あなたを待っていることを信じることが大切である。