「私は○○とともにある」は偽善の言葉?
~パリ同時多発テロ後、SNSに溢れた”やわらかい言葉”を許せるか

森田 浩之 プロフィール

そんなことを書いているおまえ自身はどうなんだ、フェイスブックのプロフィール写真はどうしているんだと聞かれそうだ。まず、僕自身はフェイスブックにアカウントを設けてはいるが、積極的に投稿していない。数十人の「友達」が元気であることを確認するためだけのツールだ。そんなわけだから、自分のプロフィール写真をトリコロールに重ねることなど思いもしない。

それにもしかすると、こんな「のんき」なことを話題にできるのは、これっきりかもしれないのだ。「○○とともにある」と言えるのは、そもそも言っている側が比較的安全なところにいるから(あるいは、いると思っているから)ではないのか。

フランスの隣国ベルギーの首都ブリュッセルでは「差し迫ったテロの脅威」があるとして、つい先日まで地下鉄の運行が全面停止され、学校も休校になっていた。フェイスブックの写真にトリコロールを重ねている場合ではなかっただろう。

元気をもらえた言葉は、ネットやSNSを通じたものではなかった

これまで自分が見聞きしたなかで、いちばん心強かった「テロ後」の言葉は、ちょうど10年前にイギリスに住んだときのものだ。2005年7月、前述のようにロンドンで連続爆破テロが起きた。そのとき僕はスコットランドのエディンバラに短期間住んでいた。

東京でテロが起きたとして、札幌にいるようなものだから、まったく危ないことはなかったが、その後ロンドンにまとまった期間住むことになっていたので、けっこう不安ではあった(おかげでテレビのニュースを食い入るように見たので、イギリス英語の勉強にはなった)。

そのころ、スコットランドのハイランドと呼ばれる北の地方を車で旅した。海沿いに評判のシーフードレストランがあった。エビやカニを手づかみでわしわしと食べ、白ワインを流し込むといった豪快な店だ。うまかった。店のマダムと話をしていたら、彼女がロンドンの近くの出身であることがわかった。当然、話題はテロのことになった。すると彼女が言った。

「そんな話をして、せっかくの休暇を台なしにしちゃだめ。やつらの思うツボだから」

今ならこういうのを「元気をもらった」などと表現するのだろうが、当時はまだそんな日本語はなかったと思う。ともかく僕が元気をもらった言葉はインターネット上のものでもなく、SNSを通じたものでもなかった。

パリ同時多発テロ以降、世界は揺れ続けている。翌週末には西アフリカ・マリの首都バマコでテロが起こり、その翌週にはチュニジアの首都チュニスでバス爆破テロが起きた。「11.13」をさかいに、世界の大きなねじがひとつ抜け落ちてしまったような気さえする。

フェイスブックのトリコロール写真でもめた件は、やがて懐かしい昔話になるのかもしれない。僕らはいずれ、あのころはまだよかったんだよな……などと話すことにもなりかねないのだ。 

森田浩之(もりた・ひろゆき)
ジャーナリスト。立教大学兼任講師。NHK記者、『Newsweek日本版』副編集長を経てフリーランスに。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)メディア学修士。著書に『メディアスポーツ解体』『スポーツニュースは恐い』、訳書にコリン・ジョイス『「イギリス社会」入門』、サイモン・クーパーほか『「ジャパン」はなぜ負けるのか』など。

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