「私は○○とともにある」は偽善の言葉?
~パリ同時多発テロ後、SNSに溢れた”やわらかい言葉”を許せるか

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文/森田浩之(ジャーナリスト)

トリコロール写真は命の価値に差をつけた

パリ同時多発テロが起きた直後、フェイスブックに新しい機能がつけ加えられた。ユーザーのプロフィール写真にフランス国旗の「トリコロール」(3色)をワンクリックで重ねるというものだ。「パリ市民の安全と平和を願うプロフィール写真を設定しよう」との趣旨だという。

この機能には賛否両論が出た。批判派が訴えたのは「なぜパリだけを特別扱いするのか」ということだった。

パリのテロの前日にはレバノンのベイルートで自爆テロが起こり、43人が死亡していた。パリの事件と同じくテロ組織IS(自称「イスラム国」)が犯行声明を出していた。10月末にはエジプトのシナイ半島でロシア旅客機が墜落して224人が死亡、ロシア当局はこれをISによるテロと結論づけた。

だがどちらの事件も、パリのテロに比べれば世界の注目は小さく、巨大SNSが追悼と連帯を示すための新機能を加えることなどなかった。「ダブルスタンダード」だと、批判派は言った。パリの人々の命は、他国の国民のものより重いとでもいうのか……。

SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の普及によって、僕たちは自分の意見を簡単に世に送り出せるようになった。世界に悲劇や惨劇が起きたときも、被害を受けた人々や国に対する哀悼の気持ちをすぐに発することができるようになった。

あるいは今回のテロで「Je Suis Paris(私はパリ)」という言葉がSNSを駆けめぐったように、「私は○○」あるいは「○○とともにある」という表現で連帯の気持ちを示すことがふつうになってきた。

けれども人々の気持ちは、世界中に平等に振り向けられるわけではない。フェイスブックの新機能をめぐる論争も、きっと答えが出るようなものではない。それよりはるかに大きな問題は、「○○とともにある」という気持ちをこれほど頻繁に表したくなる時代を、僕たちが生きなくてはならないということだろう。

「○○とともにある」という言い方が始まったのは、いったいいつのことだろう。2005年に起きたロンドンの連続爆破テロ、あるいは2001年の米同時多発テロのときにもインターネットは一般に普及していたはずだが、そんなメッセージが世界を駆けめぐったという話はあまり聞かない。

SNSの登場と深く関係しているという見方は、それほどまちがっていないのだろう。フェイスブックが設立されたのは2004年、ツイッターは2006年だ(米同時多発テロのときには、航空機が突入したニューヨークの世界貿易センタービルで知人が働いていたので、東京にある彼の会社に電話して無事を確認した記憶がある。21世紀に入ったばかりの世界はまだそのくらい「アナログ」だったし、「声」が重要だったのだ)。