賢者の知恵
2015年11月24日(火) 毛利甚八

「家栽の人」から君への遺言
〜それでも僕は犯罪加害者を「悪」と断罪しない

末期ガンの病床で語ったラストメッセージ

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あとを絶たない少年犯罪。それでも私たちは「糾弾」ではなく、その先の「可能性」を信じることができるのではないか――こうしたメッセージを世に問い続けたコミック『家栽の人』の原作者・毛利甚八氏は、2015年11月21日、パレット食道ガンで逝去されました。

毛利甚八氏。2015年11月21日逝去。享年57

本記事は、遺作となった『「家栽の人」から君への遺言』の刊行にあたって、末期ガンの病床で受けてくださったインタビューです。毛利氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。(編集部)

命が軽くなっている

抗ガン剤がすごい勢いでじわーっと体の中に染み込むのを感じながらいろいろ考えていたのですが、みんなが死に対して無感覚になっていく時代が来ているのではないか、という気がしてきました。

どういうことか。みんなが「少年Aはけしからん」などと言って、自分たちの倫理、正義、善、あるいは絆などを一生懸命守ろうとしてるんだけど、実は足元からそういうものがすごい勢いで崩れ去っているのでは、と思えるのです。

社長が年に2億円もらう一方で、契約社員は年収200万。そんなふうに資本主義の論理はガンガンと浸透してきて、当たり前のようになりました。人間としては100倍も違いはしないはずなのに、片方は大金持ちで、片方は貧乏。

で、貧乏になっていく人は生活の根本から、善や美などが壊れてゆき、人が死んでもあまり感情が動かない、そんな世界に踏み込みつつある。逆に金持ちの側も、企業の不祥事を見ればわかるように、感情も倫理も破壊されていく世界で生きるしかなくなっていく。

結局、どちらの世界でも同時進行的に命が軽くなっているんじゃないかなあ。

だから僕は『「家栽の人」から君への遺言』を書きながら、「人が『殺意』に対して無感覚になっていくのは、もしかして必然なんじゃないか」とすら思うようになりました。

それでも、人は「善」を求めてしまう。そこにフィクションの役割があると思う。

人は現実を否定するために、必死でフィクションを作って、「善」を表現してきた。だけど現代は、膨大なニュースが「人の命を軽視する構造」の存在をあからさまに教え込むようになっています。

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