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【クルマ界歴史の証人】三菱自動車の新開発・吉松広彰【後編】
〜大恩人から学んだ「クルマ作りの哲学」とは

ギャランVR-4ですでにWRCを戦っていた篠塚建次郎とヨーロッパの仕事では会うこともあったという。ランサーエボリューション(エボⅠ)がデビューする直前の'92年5月頃

自動車業界およびモータースポーツの勃興期に活躍され、多大な功績を収めた先輩方に語っていただく本企画。

元三菱自動車、商品企画担当の吉松広彰氏2回目はWRC初観戦に始まり、ギャランVR-4、そしてランサーエボリューションを生み出すまでの証言を語っていただく。

<前編はこちら>

今回の証人吉松広彰とは?

東京本社の受付横にある三菱車の年表を感慨深く見つめていた吉松広彰さん

1954年、岡山県生まれ。幼少期は岡山で過ごし、8歳の頃に武蔵小金井に父の転勤により転居。都立立川高校から東京大学工学部応用物理学科へと進む。東大卒業後、カリフォルニア大学ロサンジェルス校工学部修士課程に移り'80年3月卒業。同年5月に三菱自動車工業入社、愛知県岡崎にある研究部に配属となり、エンジニアとして音と振動を担当。

'86年5月に本社の商品企画部へと異動。ミラージュ/ランサーを皮切りに、カリスマ、コルトなどの商品企画を担当。この頃、社員チームを結成しミラージュカップに監督兼メカニックとして参加。また"世界中の本物のモータースポーツ"に数多く触れ、同時に"多くの尊敬すべき人々"との関係を築いたことがランサーエボリューションⅠ~Ⅲの誕生へと繋がる。

その後も数多くの商品開発プロジェクトに参画し、'11年10月、三菱自動車と日産自動車が合弁で設立したNMKVで新型軽自動車企画開発の最高技術責任者を務めるなどして昨年、定年退職を迎えた。現在は軽自動車の検査事務を国に代わって実施する機関「軽自動車検査協会」の情報システム担当理事として新たなキャリアをスタート。

ギャランVR-4の登場とランチア・デルタへの対抗意識

88年にデビューしたギャランVR-4の活躍 '89年アクロポリスラリーでは総合4位でポイントを初獲得し1000湖ラリーでは'76年サファリラリー以来のWRC優勝。写真は'89年RACラリー優勝のP・アイリッカラ

三菱の「モータースポーツ生みの親」である北根幸道(きたねゆきみち)さんをはじめ、厳しくも温かく導いてくれる諸先輩のもと、商品企画で私は充実した時間を過ごしていた。まさに若気の至りとでもいえばいいのか、あの岡崎時代に感じていた閉塞感からは完全に開放されたようだ。

こうなると元来、探究心の強い私は国内のラリー参戦のほかにも、いろいろと挑戦した。もちろん会社もそれを許してくれたのであるが、今にして思えば、それも私の行動を陰になり日向になり、支えてくれた人たちがいてくれたからにほかならない。そんな時代にもうお一人、私は"車作りの大恩人"と出会うことになる。

小林一孔(こばやしかずよし)さんである。ざっくばらんなその人柄から、皆、親しみを込めて"いっこうさん"と呼んでいた。小林さんは1955年に当時の新三菱重工に入社され、企業内学校で学ばれて以降、スクーターのシルバーピジョンをはじめ、三菱500の空冷エンジン開発、さらにシャーシ設計などで多くの車両開発に関わられてきた方だ。

私が言うのも何であるが、古くからのクルマ作りを熟知し、よき頑固さを持ち、新しい時代のクルマの作り方をよく理解している方だと思った。その経験に裏打ちされた的確な指示には何度も感心させられ、私は鍛え上げられていくのである。

そして何よりも私が'88年より商品企画に携わり'91年に登場することになるミラージュ/ランサー、つまり初代ランサー・エボリューションのベースとなるモデルのPM(プロジェクト・マネージャー)であり、実質的な開発のまとめ役が小林さんなのだ。

そんな時代にいろいろ経験を積むことができた。もちろんレースを自分の目で見るためにいろいろと出かけていった。国内のラリーをはじめマカオでF3を見たり、スタリオンの走りを見たりと、とにかくトップカテゴリーを目の当たりにするのである。