「差別」「排斥」はニッポンの娯楽になってしまったのか?
~そしてヘイトスピーチがこの国を侵食する

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文/安田浩一(ジャーナリスト)

結局、ネトウヨと呼ばれる人たちは何をしたいのでしょうか――。

単行本刊行から3年半が経過したいまも、私と同じくマスメディアに属する者たちから、こうした質問を受ける機会は多い。もちろん、できる限り誠実に答えたいとは思っている。

騒ぎたいだけ。目立ちたいだけ。仲間を見つけたいだけ。差別が娯楽になっている。歪んだ正義に酔っている。攻撃的になることで自我を支えている。不安や不満をぶちまけているだけ。

取材経験をもとに個別の事例を用いて、それなりの"解説"を試みても、しかし、膝をぽんと叩くような答えが私の口から飛び出てくるわけではない。当事者でもないのに、そもそも歩幅も速度もバラバラなネトウヨの"目的地"を明確化できるわけがないのだ。

すると少なくない記者は少しばかり不満げな表情を浮かべ、小さなため息を漏らし、こう言うのだ。

「まあ、いずれ淘汰されていくのでしょうけれどね」

私が取材を重ねてきた在特会に限定すれば、おそらくはそうだろう。そうであることを私も願っている。だが、在特会が存在感を失えば、それでよいのだとでもいうような物言いに、私もまた軽く舌打ちしたくなる気持ちにもなるのだ。

在特会が結成された直後、全国各地で"差別デモ"が繰り返されるようになったとき、メディアの多くはこれを無視した。

編集者も、知り合いの記者たちも「いつの時代にもバカなヤツはいるのだから」と取り合おうとはしなかった。そしてそのときもまた、お定まりの言葉が私に向けられた。

「淘汰されるから、いつかは」「そのうち消えてなくなるよ」

11月に文庫化した『ネットと愛国 (講談社+α文庫)』。「ヘイトスピーチ」なる言葉を世に広め、問題を可視化させた、時代を映し、時代を変えた1冊。

このような声を聞かされていく中で、情けないことに私もまた、彼らの側に傾いていった。消えてなくなるなら、それでいい。一時的な現象であるならば、継続して取材を続けても仕方ない。

だが「消えてなくなる」どころか、デモの隊列は増え続けた。「一部のヤツ」どころか、あらゆる層にシンパシーを広げていった。

後出しジャンケンであることを自覚しつつ、私はいま、はっきりとかつての仲間たちを、そして自分自身を批判することができる。私は、私たちは、肝心なものを見ていなかった。

在特会の姿は視界に捉えていたし、醜悪な言葉を耳奥に記録してもいた。

だが、見ていなかったこともある。

それは――被害者の姿だ。

差別する側の一挙手一投足に目を向け、怒ったり嘆いたりすることで、何かをわかったかのような気持ちになり、それでも「淘汰」を期待した。そうなることを信じた。しかし、"差別デモ"の通った後には必ず被害者が産み落とされるのだという事実に、さほどの関心を示してこなかった。

「いずれ消えてなくなる」と願望を語り合っているその間にも、被害者は増え続けた。「死ね、殺せ」といった罵声に眉をひそめても、いま、その場に、実際に「殺されるかもしれない」と脅えている者がいることに、想像を働かせることはなかったのだ。

要するに、かつての私は、私たちは、傍観者にすぎなかった。たとえば目の前で集団暴行がおこなわれていても、「ひどい」と口にしながら、しかし、暴行も長くは続かないだろうと身勝手な願望を抱えて、その場を離れてしまうようなものだった。殴られ続ける被害者を置き去りにして。

いま、確かに在特会はかつての勢いを失っている。デモの回数も、動員力も落ちている。だが、それは「淘汰」されたことになるのだろうか。

私は少しもそう思っていない。「淘汰」ではない。早い話、用済みになっただけのことだ。

差別のハードルを下げた在特会

在特会は差別のハードルを下げた。そして社会は無自覚にそれを飛び越え、憎悪の連鎖を広げている。もはや在特会など必要としない。つまりそれは、存在感を失くしつつある在特会に代わり、社会そのものが"在特会化"したということだろう。

私が単行本を執筆してからの3年半で何が変わったのか――。

もっとも大きな変化は「ヘイトスピーチ」なる言葉が一般化したことであろう。

2013年、「ヘイトスピーチ」はその年の新語・流行語大賞トップテンのひとつに選ばれた。憎悪と偏見を煽る「ヘイトスピーチ」が"流行"とされたことに苦々しい思いがないわけではなかったが、しかし、こうしたことによって世の中に認知されることも必要だと感じてはいる。

一方、いまだに「ヘイトスピーチ」を単なる不快語、罵倒語のことだと思いこんでいる向きも多い。

在特会のメンバーなどが差別デモに反対する人々へ向けて、「俺たちへのヘイトスピーチをやめろ!」と怒鳴り散らす光景は珍しいものではない。在特会を批判する私に対しても「安田のヘイトスピーチを許すな」といった批判は数多く寄せられる。講演先の会場周辺で「安田こそがヘイトスピーチを発している」といった内容のビラをまかれたこともある。

また、沖縄では「ヘイトスピーチ反対」をスローガンとして、辺野古新基地建設の"推進運動"を展開する地元ネトウヨまで現れた。

彼らは「チーム沖縄」を名乗り、辺野古新基地建設の現場に集団で出向いては「米軍、米兵に対するヘイトスピーチをやめろ!」と基地反対派を攻撃する。つまり、基地反対運動こそが「ヘイト」に基づいたものだという主張である。

メンバーの一部は在特会とも関係が深く、那覇でおこなわれた私の講演にも顔を見せ、会場から不規則発言を連発した挙げ句、「オマエ(私のこと)こそヘイトそのものだ」と捨て台詞を吐いて出ていった。

「ヘイトスピーチ」とは、人種、国籍、民族、性などのマイノリティに対して向けられる差別的な攻撃を指す。言うまでもなく、抗弁不可能な属性への差別攻撃であり、しかもそれは社会的力関係を利用して発せられるものだ。

人種差別研究で知られるハワイ大学のマリ・マツダ教授は、ヘイトスピーチは「マイノリティに対して恐怖、過度の精神緊張、精神疾患、自死にまで至る精神的な症状と感情的な苦痛をもたらす」としたうえで、その定義を以下の三点にまとめている。

[1]人種的劣等性を主張するメッセージであること
[2]歴史的に抑圧されてきたグループに向けられたメッセージであること
[3]メッセージの内容が迫害的で、敵意を有し相手を格下げするものであること

つまり、絶対的に不平等な関係性のなかから生まれるのが「ヘイトスピーチ」なのだ。

単なる不快語、罵倒語の類を「ヘイトスピーチ」としてしまえば、差別の本質が見えなくなる。それこそ子供の喧嘩や暴力団の抗争まで「ヘイトスピーチ」となってしまう。

だが、在特会はもちろんのこと、マスコミですらそれを理解しているとは言い難い。

たとえば以下に挙げる「産経新聞」のコラム記事こそが、その"無理解"の典型ではなかろうか。これは安保法案に反対する作家・大江健三郎を批判した記事だが、護憲集会における同氏のスピーチに対し、記者は次のように述べている。

〈「集団的自衛権の行使容認」イコール「戦争」と思い込んでいる人たちの言動が、荒れに荒れているのが気になります。

その代表が作家の大江健三郎さんです。彼は憲法記念日に横浜で開かれた「護憲集会」での演説で、安倍晋三首相批判に熱を入れるあまり、「安倍」と呼び捨てにしていました。

どんなに相手の考え方や性格が嫌いでも、一国の首相を呼び捨てで非難するのは、大江さんが大嫌いなはずの「ヘイトスピーチ」そのものです〉 (2015年5月8日付)

思わず椅子から転げ落ちそうになった。いったい「一国の首相を呼び捨て」にする行為の、どこが「『ヘイトスピーチ』そのもの」なのか。安保法案に絡めて大江を批判することは産経の「立ち位置」として理解できたとしても、「呼び捨て」を「ヘイト」とするのは無理筋どころか無知に等しい。まるでわかっていない。

いや、リベラルだと思われている新聞でも同様の認識が示されることもある。

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