なぜ佐藤栄作は、誰もが無理だと思っていた「沖縄返還」を実現できたのか
「戦後レジームの正体」第8回(後編)
1971年6月17日、沖縄返還協定が調印された〔photo〕gettyimages

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佐藤栄作首相の同時代の評価

私は率直に言って、佐藤栄作首相に対してはよい印象を持っていなかった。A級戦犯で逮捕された岸信介の弟という負の前提がある上に、池田勇人のような明るさ、開放的なイメージがなく、高圧的で閉鎖的な政治家だと捉えていた。

あらためて、佐藤首相についての新聞や雑誌の論評を集めると、「官僚的独善」「権力的」「陰険で内向的」「冷酷」「ハラ黒い」など、みごとに負のキーワードが氾濫している。私の佐藤に対する印象も、多分こうした論評に影響されていたのだろうが、あらためて象徴的な出来事を記す。

佐藤栄作(1901-75)第61-63代内閣総理大臣(在任1964-72)。岸信介の実弟。ノーベル平和賞受賞〔photo〕gettyimages

65年6月22日、佐藤内閣は日韓国交正常化を実現させた。かつて植民地化していて、戦後20年間の空白状態だった韓国との国交を正常化させたのである。

ところが、国会は社会、公明、民社、共産党などの強烈な反対で事実上の審議凍結が続き、最後は議長の抜き打ち発議で自民党だけの強行採決となった。

全野党、そして労働組合や全学連の学生たち、さらに多くのメディアが日韓条約を不当だと攻撃した何よりの理由は、「韓国が朝鮮における唯一の合法的な政府」だと明記したことであった。

この条約は北朝鮮を排除していて、南北分断を正当化しており、米、日、韓で、北朝鮮、中国の封じ込めをはかる帝国主義的な条約だという批判がメディアに氾濫したのである。

朝日新聞は、「日本政府は、何が故にこの時期に、譲歩をあえてしながら妥結を急がねばならなかったのか」と疑問を投じ、毎日新聞も「北朝鮮の存在を無視し、南北対立を激化して、統一を阻害する恐れあり」と強く批判している。

実は、当時日本のメディア、言論界では、韓国は軍事独裁国であり、北朝鮮こそが理想的な国家だとする意識がほぼ定着していた。そして私自身も、率直にいってそうした風潮に違和感はなかった。日韓条約は、いわば世論の大顰蹙を買った岸首相の安保条約改定の延長線上の出来事として捉えられ、私自身もそう認識していたのである。

ここで、佐藤首相からは逸脱することになるが、私自身の認識の錯綜について記しておきたい。

1960年、岸内閣の安保改定騒ぎのとき、私は連日のようにデモ隊に参加して「安保反対、岸ヤメロ」と叫んでいた。

くわしいことはあらためて記すが、私は恥ずかしいことに吉田安保についても岸安保についても全く無知で、岸首相が巣鴨から釈放されたとき、アメリカとの密約があって、安保改定は日本をアメリカの戦争に巻き込むためだ、と思い込んでいたのである。デモ隊では、それが共通認識になっていたのだ。