ブルーバックス
記憶や意識は脳の中でどのように生まれるか
〜すべてのキモは電気信号!?

杉晴夫=著『神経とシナプスの科学』
〔photo〕iStock

脳のニューロン回路の謎解明に挑む

18世紀末、イタリアの生理学者ガルバニによって世界で初めて生体を伝わる電気信号の存在が明らかになった。

電気信号が、脳や体をどうやって動かすのか、その謎を解明するのに150年以上を要した。日本人を含む偉大な研究者たちがそのメカニズムを解き明かすことで、神経とシナプスで起こる複雑な生体電気信号の実体がわかってきた。

記憶や意識は脳の中でどのように生まれるのか。ニューロン同士はどのように連係し合っているのか。21世紀の脳科学は生体電気信号をより深く知ることで意識の謎を解き明かす道を切り拓くかもしれない。

改訂版の序文

 筆者が2006年、本書旧版を出版した理由は、当時から書店にあふれていた脳に関する解説・入門書に、これらの書物の理解に必須である生体電気信号(活動電位)の説明がほんの数行しか記されておらず、実質的には脱落していることであった。これは、これらの書物の著者自身が、生体電気信号解明の歴史をほとんど知らないためであろう。

 筆者は昭和一桁生まれで、実父(杉靖三郎)が勤務していた東京大学医学部生理学教室に幼時から父に連れられて出入りし、教室のメンバーが、当時はもっぱら「興奮」あるいは「衝撃」と呼ばれていた生体電気信号発生の神秘を探る現場に居合わせることになった。

 当時の研究者は、カエルから取り出した坐骨神経に種々の方法で電気刺激を与え、この坐骨神経が付着する筋肉の収縮を唯一の手がかりとして、「神経衝撃発生の謎」を懸命に探っていたのである。これらの研究によって当時得られた知見は、本書の旧版に体系的に記述されている。

 このような、生体電気信号をいわば「手探り」で模索していた研究の黎明期の記述が可能であったのは、筆者の幼児期以来の体験に加えて、筆者の実父の蔵書に、当時の第一線の研究者たち(跳躍伝導を発見した偉大な田崎一二を含む:90ページコラム参照)が、神経を伝わる興奮現象について、当時の国内外の研究を検討しつつ考察した力作が多数含まれており、筆者がこれらの貴重な著書を熟読できたためであった。

 しかし現在は、大学、研究所などの図書室は書物であふれかえり、多年にわたり蒐集した貴重な蔵書を寄贈しようと申し出ても断られるのが現実だ。これでは田崎をはじめ偉大な研究者たちの論議が記された、歴史的に貴重な著書が、読まれることなく消滅してしまう。筆者にとってこれは耐え難いことである。

 本書の旧版は、幸い多くの読者に高く評価され、一部の大学の生物系学部では脳研究をめざす学生のための教科書として使用されている。これは、筆者にとって望外の喜びである。

 しかし本書は現在のところ、筆者が望むように、脳に興味を持つ一般読者層に広く読まれるには至っていない。旧版が出版されてからもうじき一〇年になろうとしており、その間、脳研究のアプローチの仕方や実験手法も変化してきている。

 したがって本改訂版では、脳のニューロン細胞膜イオンチャンネルの研究のために開発されたパッチクランプ法について第6章で新しく解説を加え、いまでは脳の機能研究のために不可欠となった機能的核磁気共鳴画像法(functional magnetic resonance imaging)、さらに、分子レベルでの脳研究を可能にした遺伝子ノックアウト動物などの新しい実験技法について、将来を見据えた解説を第10章で展開するとともに、個々の技法の長所、問題点、限界について議論する。こうした議論が将来、新しい実験法の開発に発展することを願う。

 また筆者の半世紀に及ぶ国際的な研究活動を介して親しく交際した、この学問分野の巨人たちのエピソードをいくつか紹介する。読者はこれを読まれて、巨人たちもわれわれと同じく、時には感情をむき出しにするひとりの人間であることを知り、彼らに親しみを持つとともに、より一層彼らの成し遂げた偉業に理解を深めていただきたい。

 実はこれまで筆者は、このようなエピソードの公表をためらってきたが、これらの巨人たちがこの世を去られてすでに久しいので、本書で取り上げさせていただくことにした。なおここに登場する人々は、すべて筆者と親しく、すでに科学史上の人物となられたので、敬称を用いないことにした。

 筆者はこの本が、旧版よりはるかに広汎な人々によって読まれ、忘れ去られようとしているわが国の神経伝達の研究を牽引した加藤元一、田崎一二らの偉大な業績が改めて見直され、さらに次世代にわたって記憶され続けることを心から願っている。自国の偉大な先達の達成した業績を理解し、偉大な先達の独創性に学ぶことが21世紀の脳科学の発展には不可欠だからだ。

 筆者のいま一つの願いは、本書の一般読者が現在の脳研究の実態と限界を認識され、巷に蔓延する「脳研究神話」を盲信されないことである。ここで言う「一般読者」には、科学研究とは元来無縁であるが、科学研究の行方を決定する立場の人々も含まれている。彼らの「神話」に対する盲信が、現在の科学研究費配分の著しい偏りと、これによる生命科学の衰退を招くことを危惧するからである。

著者 杉晴夫(すぎ・はるお) 
一九三三年生まれ。東京大学医学部助手を経て、米国コロンビア大学医学部および国立保健研究所に勤務ののち、一九七三年より帝京大学医学部教授、二〇〇四年定年退官。名誉教授。専門は筋収縮の生理学。編著書に『生体はどのように情報を処理しているか――生体電気信号系入門』(理工学社)、『運動生理学』(南江堂)、『筋肉はふしぎ』『ストレスとはなんだろう』『栄養学を拓いた巨人たち』(ともにブルーバックス)など多数。日本動物学会賞、日本比較生理生化学賞等受賞。国際生理科学連合筋肉分科会委員長を歴任。
『神経とシナプスの科学』
現代脳研究の源流

杉晴夫=著

発行年月日: 2015/11/20
ページ数: 320
シリーズ通巻番号: B1943

定価:本体  1080円(税別)
     ⇒本を購入する(Amazon)
     ⇒本を購入する(楽天)

 
(前書きおよび著者情報は初版刊行時点のものです)

ブルーバックス前書き図書館のメニューページはこちら