雑誌 企業・経営
【業績拡大中】京浜急行電鉄社長の「偶然に頼らない経営哲学」

東京都心と横浜、羽田空港、さらには三浦半島全域を結ぶ京浜急行電鉄が業績を拡大している。訪日旅行客の増加による羽田空港の活性化などが理由だが、この追い風に乗るまでには長い準備期間が必要だったという。原田一之社長(61歳)に聞いた。

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はらだ・かずゆき/'54年神奈川県生まれ。'76年に東北大学法学部を卒業し、京浜急行電鉄へ入社。長く人事担当を務め、羽田空港駅(現・羽田空港国内線ターミナル駅)開業などにも参画。'04年に鉄道本部計画営業部長へ就任し、'07年に取締役、'11年に専務を歴任。'13年社長就任、以来現職

沿線

当社は明治期、穴守稲荷や川崎大師への参詣客を中心に輸送する、小さな鉄道会社でした。その後、高度経済成長期を迎えると京浜工業地帯への通勤や、三浦海岸や三崎などへレジャーに出かける方が増え、現在は羽田空港を利用する国内外のお客様が急増しています。

時代により、お客様のご利用目的も、年齢も、沿線の産業も何もかもが変わってきました。そんな中、当社の沿線は常に活性化していますが、これは偶然ではありません。

例えば羽田へ向かう京急空港線も、将来の当社のあるべき姿を考え、開業までに20年ほどかけ、準備したものです。非常に面白い仕事であると同時に、すぐに結果が出るわけではない難しさがあります。

地元

30代の頃、数年間、横須賀リサーチパーク(YRP野比駅付近、'97年稼働)の開発に携わりました。通信会社などの研究開発部門が集まる施設で、まだ携帯電話が肩掛け鞄ほどの大きさの「ショルダーホン」だった、'85年頃から進めていた計画です。見込まれた就業人口は約9000人。地域の活性化につながるためか、地元の反対はなく、このことは私の考え方に強い影響を与えました。

様々な方からご支持いただいて、はじめて事業はスムーズに進む。大事業はこうであらねばという感覚は、現在も私の内なる指針になっています。最近では、京急蒲田駅の連続立体交差の工事(空港線の踏切をなくし、増発を可能にする工事)も、YRPの工事と同様に多くの方から支持を受ける事業だったと思います。

猛勉強

今も記憶に残っているのは、'98年の羽田空港国内線ターミナル駅の開業時に、他の鉄道会社の方に、「原田さんじゃわからないか」と言わせてしまったことです。私は人事が長かったのですが、同駅の開業直前に営業課長になり、成田空港と羽田空港を結ぶ「エアポートきっぷ」を作ることになりました。

ところが私は、この切符の種別である「企画乗車券」という言葉すら知りませんでした。しかも、この券は、どこで売るか、乗り越し時にどう精算するのかなど、発売までに他社と交渉すべきことが多かった。他社の担当者はあきれて「原田さんじゃ・・・・・・」と言い始め、計画は頓挫しそうになりました。

追い詰められた私は、独自に猛勉強しました。そのうえで、この担当者と品川駅前の居酒屋へ飲みに行き、必死で話すと、彼は「よくわかった。明日、会社で皆を説得する!」と請け合ってくれたのです。発売された切符を見た時は、感慨深かったです。