週刊現代
作家・船戸与一からの最後のメッセージ〜『満州国演義』に綴られた歴史への眼差し

満洲国建国の祭典での秩父宮(PHOTO:gettyimages)

私の恩人・作家の船戸与一さん

ことし4月、胸腺がんで亡くなった作家の船戸与一さんは私の恩人の一人である。
と言っても、私はご本人に一度しか会ったことがない。それも、パーティの席でわずかな時間、言葉を交わしただけだ。それでも自分の恩人だと言うのには、ちょっとした訳がある。

18年前、私は共同通信を辞めたばかりの駆け出しのライターだった。ライターと言えば聞こえはいいが、出版社から仕事の注文がないかぎり、実態は無職に近い。私は主夫業をしながら細々と取材を続けていた。

少し前に、朝日新聞の記者から「ウチに来ないか」と誘いがあった。自分のやりたい仕事ができるなら、それもいいかもと思い、面接試験を受けた。結果は不合格。たぶん性格に難ありと判断されたのだと思う。

自分で言うのも何だが、朝日の判断は正しかった。私は共同通信でわがまま一杯に育ったから協調性がない。上司を上司とも思わぬところがある。気に入らぬ仕事を命じられると、プイとそっぽを向く。仮に朝日に採用されたとしても、周囲と衝突してすぐ辞めていたにちがいない。

でも、面接に落ちたと知ったときはさすがに落ち込んだ。自信をなくした。朝日からも「要らない」と言われる人間が、実力本位のライターの世界で独り立ちできるだろうか。

できなければ専業主夫として生きていくまでさ。と、居直ってはみたものの、破れ障子からすきま風がピューピュー吹き込んでくるような心細さがまとわりついて離れなかった。

そんなとき、朗報が飛び込んできた。私が共同通信在籍中に同僚たちと一緒に書いた『沈黙のファイル』(共同通信社社会部編)が1997年の日本推理作家協会賞(評論その他の部門)に選ばれたというのである。

『沈黙のファイル』は元大本営参謀・瀬島龍三氏の軌跡をたどったノンフィクションだ。瀬島氏は30歳で事実上、対米英戦の作戦主任となり、400万人の軍隊の生死を左右した。戦後11年もシベリアに抑留されながら、帰国後、伊藤忠商事に入ってとんとん拍子で出世した。

10年で専務、20年で会長になり、中曽根康弘氏ら「歴代首相の指南役」「政界の影のキーマン」と呼ばれるまで出世階段を上り詰めた。無謀で愚かな戦争の核心に関わった瀬島氏が、なぜ不死鳥のように甦ったのか。その謎を追った作品だった。

その作品が推理作家協会賞の対象になった経緯はまったくわからなかったが、私はうれしくて跳びあがった。先行きの見えないライター人生に一筋の光明を見たような気がした。

都内のホテルで授賞パーティがあった。そこで選考委員の一人である船戸さんに初めてお目にかかった。船戸さんは、当時すでに『山猫の夏』(講談社文庫)や『砂のクロニクル』(新潮文庫)などで知られる冒険小説の第一人者だった。

そのとき船戸さんとどんな話をしたのか、今となってはよく覚えていない。ただ、テンガロンハットをかぶった船戸さんの笑顔が素敵だったのと、『沈黙のファイル』の受賞を手放しで喜んでくれたことが脳裏に焼きついている。

その喜びようから、私は「この人が強力に推薦してくれたんだ」と察した。船戸さんは出版社勤務を経てノンフィクション作家になり、それから小説家に転じた人だ。たぶん、過去の自分と同じように、組織メディアを飛び出し、よちよちとライター人生を歩みだした私の背中をそっと押してくれたのだろう。

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